地獄のハイウェイ

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アリスタルコスの太陽中心説を再考する(3)まとめ

 紀元前3世紀にアリスタルコスが宇宙の中心に太陽が位置するとした太陽中心説を唱えたことは広く知られているものの、資料が乏しいため、その学説の詳しい内容についてはよく分かっていない。アリスタルコスの太陽中心説についての情報源としては、時代的にも近く高度な数学的知識を持ったアルキメデスによる記述が最も信頼できる。また時代的に少し離れていて高度な専門性は期待できないが、プルタルコス(紀元46頃 ~120頃)によるものもある。紀元前1世紀のウィトルウィウスは、その『建築書』において数学的技芸の達人としてアルキメデスらと並べてアリスタルコスの名前を挙げ*1、また月の満ち欠けについてのアリスタルコスの説明も紹介しているが*2、残念ながら太陽中心説についての情報は伝えていない。

 アリスタルコスの太陽中心説の内容について、単なるアイデアレベルのものであったのか、ある程度の内容が伴った学説であったかも定かではないが、アイデアだけの学説ではなく、それなりの具体的な内容を伴ったものであった可能性があると推量し、自分なりにあれこれ考察*3を加えてきた。アルキメデスプルタルコスによって伝えられた情報から確実に言えることは、太陽と恒星が不動で地球は自転しながら不動の太陽の周りを回っているとする太陽中心説だということになる。それを含めて太陽中心説の内容に含まれていたことがほぼ間違いなさそうなことをリスト化すると次のようになる。

  1. 太陽と恒星は不動である。
  2. 太陽は恒星天球の中心に位置し、地球はその周りを円軌道に沿って回転している。
  3. 地球は自転し、その自転軸は地球が太陽を回る円軌道に対して傾いている。
  4. 恒星天球の大きさは地球軌道を含む天球よりもはるかに大きいが、両者の直径の比は、地球軌道を含む天球と太陽(もしくは地球)との直径の比に等しい。
  5. 月は地球の周りを回っている。
  6. 太陽の一番近くを回るのが水星で、金星はその外側を回り、そのさらに外側を地球が回っている。
  7. 地球の外側を火星が回り、火星の外側を木星が、木星の外側を土星が回っている。

このリストにおいて1と2はアルキメデスが、3はプルタルコスがそれぞれ伝えていること、4はアルキメデスが伝えているが解釈に不確定なところがあるものである。5は太陽中心説においても当たり前すぎる内容で、これに関してはウィトルウィウスが紹介しているアリスタルコスの月の理論が情報源となる。また、6と7は状況から考えて学説に含まれているとみなして問題がないものである。

 アリスタルコスの時代には周転円説は未登場なので、天文学上のライバル理論はエウドクソスの同心天球説であった。エウドクソスは惑星の運動について日周運動の他に黄道を巡る恒星周期に一つ、惑星の会合周期の往復運動のために二つの天球と、惑星当たり4個を想定していたため、同心天球説では惑星の運動に必要な天球の数が20個であった。それに対して、アリスタルコスの太陽中心説ではすべての天体の日周運動が地球の自転で説明され、惑星と地球にそれぞれの恒星周期の運動だけが残り、地球の年周運動(同心天球説なら太陽の年周運動に相当)を加えても6個に縮減されてぐっとシンプルになっている。また同心天球説は、各惑星に個別に日周運動用の天球が想定されていて統一されたシステムになっていなかったが*4太陽中心説ではすべての惑星が一つの太陽系モデルとして組み入れられ統一的なシステムとなっている。このように太陽中心説は同心天球説よりも単純であり体系的である。

 また太陽中心説には惑星の順序に加えて、各惑星が黄道を周回する恒星周期について数値が与えられていたと考えられる。というのはライバルの同心天球説において恒星周期と会合周期の値が与えられており、太陽中心説においても同様に値が与えられていた可能性が高いからである。両説を比較すると、同心天球説においては会合周期と恒星周期は独立したパラメータであるが、太陽中心説においては会合周期は惑星と地球のそれぞれの恒星周期の関係で説明される従属的なパラメータとなる。すなわち太陽中心説では同心天球説よりも少ないパラメータで体系が構成されていて、理論がより簡潔になっている。

 しかしながら太陽中心説に各惑星の恒星周期の数値が含まれていた場合でも、その数値の精確さについては分からない。ライバルの同心天球説程度の粗い数字であった可能性もあるし、観測で改良された数値を採用していた可能性もある。ウィトルウィウスの紹介する月の満ち欠けの理論の数値の精度が高くない*5ので、太陽中心説においても恒星周期の値は粗い概数であった可能性が高い。また月の公転周期と朔望月の関係について何らかの説明が含まれていても不思議はないが*6、それが含まれていたと信じるに足る根拠はない。幾何学的なモデルの提示による天文現象の説明が太陽中心説の主目的であった場合には、月の運動にしても惑星の運動にしても精度の高い値は与えられていなかったのではないかと思われる*7

 とは言え、同心天球説者のピタネのアウトリュコス*8が同心天球説の難点として認めていた惑星の明るさの変化については、まったく説明ができなかった同心天球説と異なり、太陽中心説の場合は惑星と地球の距離の変化に基づいて自然に説明できること*9は特筆すべき点であろう。

 アリスタルコスの太陽中心説に各惑星の公転軌道半径(天球半径)について何らかの数値が与えられていたかどうかは分からない。惑星の天球半径については何の数値も与えられていなかった可能性もあるが、恒星天球の半径についての値を与えていたことを考慮すると、惑星の天球半径の値が与えられていたとしてもおかしくはない。これまでの考察をまとめると、アリスタルコスがその学説で採用していた可能性のあるモデルとして次表のA~Cの候補が考えられる。

  水星 金星 地球 火星 木星 土星
モデルA 0.23 0.61 1.00 2.00 12.00 30.00
モデルB 0.38 0.75 1.00 2.00 12.00 30.00
モデルC 0.38 0.75 1.00 1.59 5.14 8.75
現代値 0.39 0.72 1.00 1.52 5.20 9.54

天球半径の値は地球のそれを1とした場合の値を示しているが、計算の前提になる数値や計算方法で数値は変化するので、表に示した数値はあくまでも目安である。ここでモデルAは、惑星の天球半径がその恒星周期に比例するとしたもの、モデルBは内惑星に関して最大離角を反映したもの、モデルCは内惑星の最大離角に加えて外惑星の逆行幅を反映したものである。モデルAはシンプルな仮定から導かれるものであり、水星や金星に最大離角が存在することや金星の最大離角が水星のそれよりも大きいことが説明できるので、これがアリスタルコスの学説の内容であった可能性は十分にあると思われる。ただ最大離角の数値が実際の観測値よりも小さくなることは幾何学的に容易に理解されるので、幾何学的な考察からモデルBに至っていた可能性が高いのではないだろうか。モデルBからは水星と金星の最大離角の値について説明を与えることができるので、『太陽と月の大きさと距離について』のような当時の数学書の仮説や要請から出発して命題を証明する演繹的な叙述スタイルと適合してしている点でも大いにあり得ると思われる。これに対してモデルCでは、アリスタルコスには逆行運動の幅を所与として惑星の天球半径を求めることができとしても、天球半径と恒星周期を所与として逆行運動の幅を説明することは出来なかったと考えられる*10。演繹的な叙述スタイルには馴染まない命題がアリスタルコスの著作に含まれていたとは考え難い。外惑星の逆行運動の幅を考慮したモデルCであった可能性は極めて低いのではないかと思う。

 太陽中心説では惑星の運動が一様でないこと(第二変則性)については定性的な説明を与えていたと思われるが、逆行運動の十分な説明に成功していたと信ずべき理由はない。とはいうもののライバルの同心天球説でも火星や金星については逆行について満足なモデルが構成できていなかったようなので*11、この点で太陽中心説が同心天球説に対して大きく劣っている訳ではない。

 その一方で、アリスタルコスの理論では宇宙の中心に太陽を置いているため、地球が太陽の周りを等速円運動で周回することで、太陽の見掛けの年周運動(太陽中心説なので地球の年周運動による見掛けの運動)は一様になってしまい、太陽の年周運動が一様でないこと(第一変則性)の説明は含まれていなかったであろうと推測される。同心天球説ではカリポスが第一変則性の説明のために太陽運動の天球の追加を試みているので、その点では太陽中心説は後れを取っていたことになる。もちろん地球の年周運動に天球を追加して理論を改良することは可能であるが*12、その場合には地球から見た天体の見掛けの動きが複雑化してしまい記述が非常に面倒になるので、アリスタルコスがそこまでやったとは思われない。

 また同心天球説においても月の公転軌道(白道)が黄道から傾いていることは説明されているので、太陽中心説においても同様に、月の軌道が黄道面から傾いていたと考えられる。しかしながら、朔望月の値の精度が高くなかったのなら、月の交点(黄道白道の交点)の移動に関しては理論に含まれていなかった可能性が高いし、そうであるなら日食や月食の予測はできなかったと考えるべきである。日食や月食の予測は、実用的には幾何学モデルがなくても周期だけを考えれば予測は可能なので、それが深刻な問題とは考えられなかったかも知れないが、アリスタルコスの理論が「現象を救う」(現象にもっともらしい説明を与える)性格のものであったことを示している。

 多くの科学史家は、自然学の常識に反して地球が宇宙の中心に位置しないという自然学との齟齬があるため、アリスタルコスの太陽中心説は広く受け入れられなかったと考えている。しかしながら、それまでの同心天球説に対して多くの点で理論上の優位を示すことができているので、同心天球説の理論的覇権を突き崩したのではないだろうか。実際の観測データと突き合わせるためには地球中心の観点へのわざわざ変換をする必要があってちょっと使いにくいこともあるので、実際の天体運行の予測に使うことができるものとは見なされていなかったと思うが、当時の天文学者の間では現象を救う幾何学的仕掛けとしてして受け取られたのではないかとも思わう。

*1:『建築書』の該当箇所の英訳は次のようなものである。

As for men upon whom nature has bestowed so much ingenuity, acuteness, and memory that they are able to have a thorough knowledge of geometry, astronomy, music, and the other arts, they go beyond the functions of architects and become pure mathematicians. Hence they can readily take up positions against those arts because many are the artistic weapons with which they are armed. Such men, however, are rarely found, but there have been such at times; for example, Aristarchus of Samos, Philolaus and Archytas of Tarentum, Apollonius of Perga, Eratosthenes of Cyrene, and among Syracusans Archimedes and Scopinas, who through mathematics and natural philosophy discovered, expounded, and left to posterity many things in connexion with mechanics and with sundials.

幾何学天文学、音楽、その他の技芸に精通できるほどの独創性、鋭敏さ、記憶力を天より授けられた人間は、建築家の役割を越えて純粋な数学者となる。それゆえ彼らは、その武装した技芸の武器の多くをもって、それらの技芸に対して容易に地位を占めることができるのである。そのような人物はめったに見いだされないものであるが時には現れる、例えばサモスのアリスタルコス、タレントゥムのフィロラオスとアルキタス、ペルガのアポロニウス、キュレネのエラトステネス、そしてシラクサの人アルキメデスやスコピナスなどは、数学と自然哲学を通して、機械学や日時計に関連する多くのことを発見し、説明し、後世に残した。

ウィトルウィウス『建築書』1.1.16、英文はToposTextから)

*2:ウィトルウィウス『建築書』9.2.3、9.2.4

*3:アリスタルコスの太陽中心説に関する考察は次の3つである。

 

*4:天球を実在のものとして組み合わせたシステムを考えたアリストテレスもいるが、残念ながら日周運動の扱いがとても杜撰であり、そのままではとても天文学の理論とは言えない。

*5:朔望月(月の満ち欠けの周期)を約28日としているが、メトン周期でもカリポス周期でも朔望月は約29.53日である。

*6:カリポス周期の値である朔望月29.53日と太陽年365.25日から月の公転周期を計算すると27.32日になる

*7:後のヒッパルコス(紀元前190頃~120頃)のような理論と観測の一致を目指す動機がアリスタルコスには欠けていたかもしれない。

*8:紀元前360頃~290頃

*9:外惑星については衝において、内惑星については内合において距離が最小になる。

*10:逆行と順行が切り替わる留の条件の解明は後のアポロニオス(アポロニウス)による。

*11:火星と金星について満足なモデルがないことは、例えばエウドクソスの研究者であるH.Mendellのサイトに説明がある。

*12:同心天球説においてカリポスが太陽運動に追加した2つの天球は、惑星の往復運動用の2つの天球と同様のものだと思われる。

アリスタルコスの太陽中心説を再考する(2)外惑星について

 前回の記事「アリスタルコスの太陽中心説を再考する(1)内惑星について」の続きで、アリスタルコスの太陽中心説における外惑星(火星、木星土星)について考えてみた。

 外惑星は内惑星と違って、太陽の位置による束縛を受けず黄道上で任意の離角をとり、地球を中心に太陽とちょうど反対の位置にくる衝が存在することから、太陽中心モデルでは周回軌道(惑星の天球の大円)が地球の周回軌道(地球の天球の大円)の外側になければならないことは明らかである。また太陽中心モデルでは、衝のときに地球から惑星までの距離が最も短くなるので、衝のときに最も明るく輝いて見えることが説明できる。この点では、地球から惑星までの距離が不変であるために惑星の明るさの変化が説明できない同心天球説よりも太陽中心説の方が優れていることがわかる。

 外惑星についての観測データとして、アリスタルコスの時代よりも以前から、黄道帯を周回する恒星周期については知られていたようである。先行するエウドクソスの同心天球説の場合、外惑星の恒星周期については火星2年、木星12年、土星30年としていたようである*1古代ギリシアでは恒星周期がより長い方がより遠くを回っているだろうとする考え方が広く受容されていたので*2、恐らくアリスタルコスはこの考え方に基づいて、太陽から近い順に地球、火星、木星土星としていたのだろうと思われる。

 外惑星の会合周期もアリスタルコスが利用できた観測データであろうと思われるが、エウドクソスの同心天球説での値は火星が8か月と20日(260日)、木星土星が13か月となっていたようだ*3。この火星の数値は明らかに異常で、20と8か月(840日)の間違いではないかとの説があるようだし*4、あまり信頼できなさそうな会合周期の値*5から惑星天球の回転周期を求めるのは苦しいので*6、恒星周期の値の方から会合周期を計算してみることにする。恒星周期から求めた会合周期は、火星が2年(730日)、木星が13.1か月、土星が12.4か月になり、観測値とひどく乖離しているわけではないという結果になる。

 アリスタルコスが、太陽から惑星までの距離について具体的な数値を与えていたかどうかについては文献的な証拠は何もない。ケプラーの第3法則を知っていれば、軌道半径の3乗が公転周期の2乗に比例することから、恒星周期2年、12年、30年から、太陽から地球までの距離を1として、火星については1.59、木星については5.24、土星については9.66、と求めることができるが、そのようなことがアリスタルコスにできるはずもない。アリスタルコスができそうな距離についての推定方法*7としては、まずシンプルに太陽から惑星までの距離を恒星周期に比例させることではないかと思われる。もしも内惑星について前回の記事に書いたような値を求めることができていたとしたら、惑星天球の半径は天球の回転周期に比例するように見えなくもないので、太陽から惑星までの距離と恒星周期の比例関係に関する信念を強化することになっていたかもしれない。仮に太陽からの距離(天球半径)と恒星周期(角速度の逆数)が比例しているとした場合、太陽から地球までの距離を1として、火星までが2、木星までが12、土星までが30となる。この太陽中心モデルのサイズ感を実感できるような想像図を描くと次のようなものになる。

天球半径が恒星周期に比例した場合の外惑星の天球の大きさの比較

 しかし、この外惑星の天球パラメータには致命的とも言える大きな欠点がある。というのは、円運動の接線速度が同じであれば、衝のときに地球と外惑星は同じ方向に同じだけ空間を移動するので、衝の近傍で地球から外惑星を結ぶ直線がほぼ平行になってしまい、衝のときに地球が外惑星を追い越すことがないのである。つまり惑星が衝の位置を通過するときに逆行現象が起きないのである。この状況を簡単な模式図で示すと次のようになる。

外惑星の逆行が生じない場合の模式図

図では地球が1→2→3→4と動く間に、外惑星はa→b→c→dと移動し、地球から外惑星を見て恒星天球に投影された外惑星の位置はA→B→C→Dと変化する。この恒星天球に投影された外惑星の移動方向は、地球から見た太陽の恒星天球への投影の移動方向*8と同じになる(つまり順行する)ことがわかる。太陽からの距離(天球半径)と回転周期(角速度の逆数)が比例しているとしたのは、接線速度*9が同じであるという前提によるのだが、この前提のゆえに衝において外惑星が逆行がすることができないのである。逆行が生じるためには、衝における外惑星の周回運動における接線速度の大きさが、地球のそれよりも小さくなければならない。したがって、角速度に合わせるためには、モデルのパラメータである太陽からの惑星までの距離を周期に比例するとした場合よりも短くする必要がある。

 アリスタルコスが、距離-周期比例モデルでは外惑星の逆行が説明できないことに気が付いていたかどうかは不明である。おそらく気が付いていなかったのではないかと思うが、もしも万が一にでも気が付いていたら外惑星の天球の半径について、どのようなアプローチが可能であったろうかと考えてみた。逆行が開始したり終了したりする留の成立条件についてアリスタルコスが知らなかったであろうことは歴史的にほぼ間違いないが、留の正確な成立条件を知らないとしても、可能だったかもしれない内容を検討してみる。

 それで、あれこれ考えてみたのだが、当時入手できそうな観測データとしては、惑星の逆行期間があることに気が付いた。アリスタルコスが逆行期間について粗い数字を知っていても不思議はない*10。逆行期間の概略の値は、火星が約2か月、木星が4か月、土星が5か月である。逆行期間中に惑星も地球も等速円運動をしているので、火星については2か月の逆行期間中に30°動いて同じ期間中に地球が60°動き、木星については4か月の期間中に10°動いて地球が120°動き、土星は5か月の期間中に5°動いて地球が150°動くことになる。逆行期間に加えて逆行運動の範囲の値、例えば逆行開始位置での外惑星の恒星天球上の見掛けの位置が黄道上で衝の位置からどのくらい離れているか(黄経の差)が判れば、それに基づいて惑星の配置図を作ることができる。

逆行開始から逆行終了までの惑星配置の模式図

この図では、地球が1→2→3→4と動く間に、外惑星はa→b→c→dと移動し、恒星天球に投影された外惑星の位置は、Aから逆行を開始し逆行が終了するDまで移動する。逆行開始時において太陽から見た惑星は、外惑星の角速度から求められる点pと太陽sとを結んだ直線ps上にある。一方で、外惑星は恒星天球上の投影位置Aとその時点での地球の位置(図上の1)を結んだ直線(A-1)上にあるので、外惑星は両直線の交点aに位置していることがわかる。また、逆行終了時においては、直線qsと直線D-4の交点dに惑星は位置している。このようにして配置図から惑星天球の半径(軌道半径)の大きさは、線分saまたは線分sdの長さとして求めることができる。

 この方法で惑星の軌道半径を求めることは、三角関数が使えないと純粋に幾何学的な手法では難しいが、図面を描いて図面上で長さを測るといった言わば機械学者の手法ならできないことはない。当時の天文学者も観測機器の製作のための知識が必要だったようであるし、アリスタルコス自身もある種の日時計の発明者としても伝わっている*11ので、機械学者の手法を使ったかもしれないと想像することは、それほど荒唐無稽ではないと思う。

 アリスタルコスの頃に逆行運動の幅について、どのような数値が得られていたのかについては、調べてみた範囲ではよくわからなかった。占星術では惑星の動きは黄道十二宮の出入りで記述されることが多いようなので、バビロニアの方ではそれなりの観測データがあったはずだが、それをアリスタルコスが手にしていたかどうかはよくわからない。何の観測もされていないと逆行運動の存在がわからないので、もしかすると当時のギリシア天文学では、かなり粗い数値(宮の黄道上の幅の1/2とか1/3とか)は得られていたかもしれない。現代の知識では、逆行運動の幅は、火星の場合は10~19°の幅で変動し、木星の場合は約10°、土星は約7°のようであるので、切りの良い数字として、十二宮の一つの宮の幅(30°)の1/2、1/3、1/4を使ってみることにする。
 恒星天球の半径として前々回の記事での考察をもとに地球軌道半径の229倍として、CADソフトを使って作図して、外惑星の軌道半径(惑星天球の半径)を測ってみたところ、地球軌道半径を1として、火星が1.59、木星が5.14、土星が8.75となった。ケプラーの第3法則を使って恒星周期から求めた天球半径の値(火星1.59、木星5.24、土星9.66)と比べると、かなり良い推測ができていることが分かる。このような推測は当時の知識の水準でも不可能ではなかっただろうと思うが、実際にアリスタルコスがここまで到達していたと想像するのは、ちょっと過剰な期待であるとも思う。

 

*1:数値はシンプリキオスの『天体論註解』に記されたもの。例によってエウドクソスの数値よりもバビロニア天文学の数値の方がずっと良くて、小数表記で火星1.88年、木星11.83年、土星29.5年。

*2:等速円運動の接線速度が同じであれば、円の半径が大きくなるほど角速度は反比例して小さくなる。

*3:シンプリキオス『天体論註解』

*4:バビロニアの数値は、火星779日、木星399日、土星378日。

*5:エウドクソスの値は火星の数値も異常だが、木星土星の会合周期が共に13ヶ月となっているようにちょっとアバウトなところがある。

*6:因みにバビロニアの会合周期の数値から、天球の回転周期を求めると、火星が687日(1.88年)、木星が4,283日(11.7年)、土星が10,613日(29.1年)となり、恒星周期に関する彼らの観測値とは良く合う。

*7:天文学の範囲に入るとは言い難いが、ピュタゴラス派のテトラクテュスとかの数の調和の理論の流れを組む思弁的な議論があるにはある。例えば、プラトンは『ティマイオス』で神が宇宙の内側から1、2、3、4、8、9、27倍の大きさになるように創造したというような話をしている。

*8:図中では、地球から見た太陽の恒星天球への投影の代わりに、地球から見た太陽のちょうど反対側にあたる点(すなわち太陽から見た地球の投影)であるs1~s4を示している。

*9:アリスタルコスが”接線速度”という用語を使ったわけではない。

*10:会合周期の観測の中でデータは得られていただろうと想像される。

*11:ウィトルウィウス『建築書』

アリスタルコスの太陽中心説を再考する(1)内惑星について

 先日、アリスタルコスの太陽中心説(地動説)について「アリスタルコスの恒星天球」という記事を書いたので、興味を持ってちょっと調べてみたのだが、アリスタルコスが太陽中心説を書いた著作が失われてしまっているため、太陽中心説の具体的な中身についてはよく分かっていないようだ。アルキメデスの『砂粒を数えるもの』における言及からは、地球の自転のような当然の帰結*1を除くと、惑星の順序について書かれていたかどうかさえよく分からない。したがって、アリスタルコスの太陽中心説における惑星の順序や各惑星天球の半径や回転速度などのパラメータがどのようなものであったかについては、我々は想像するしかない。

 とはいうものの、当時の天文学の知識などについては他の資料などからある程度は明らかにされているので、それに基づいて「このくらいの内容は含まれていて当然であろう」とか「このくらいの内容であったとしても不思議ではないだろう」と推測することはできる。

 まず、アリスタルコスの太陽中心説に含まれていたことがほぼ確実だろうと推測できることは、内惑星*2すなわち金星と水星の太陽からの順序についてである。

 アリスタルコスの頃までには月が惑星を隠す星食*3から、月が最も地球に近いと考えられていたが、内惑星の方が太陽よりも地球*4から遠いという学説も存在していたようだ。アリスタルコスよりも少し後の時代のエラトステネスも太陽が惑星よりも地球に近いとしていたようである*5。エラトステネスが太陽の方が内惑星よりも地球に近いとしていたことは、エウドクソスらの同心天球説*6では内惑星と太陽について地球(=宇宙の中心)からの順序を決定できていなかったことを示している。惑星順序は、周転円説でも一意的に決めることができていない。プトレマイオスの頃までには地球から月、水星、金星、太陽の順が天文学者の間で標準的な学説になっていたようだが、『アルマゲスト』では、内惑星の太陽面通過が観測できていなかったことを理由に太陽が内惑星よりも地球に近いとする異説を述べる天文学者がいることに触れ、惑星順序については観測からは決められないが、標準的な順序の方がもっともらしいとしている。また外惑星(火星、木星土星)の場合は、その黄道帯を周回する周期(恒星周期、sidereal period)がより長い方がより遠くを回っているだろうとする考えに基づいて、天文学者たちの間でコンセンサスがあったようだが、太陽と内惑星は恒星周期がいずれも一年であるので、この考え方では太陽と内惑星の順序の決めようがない。

 内惑星が外惑星と異なり、時には太陽に先行して地平から昇り、時には太陽の後に地平に没するように、太陽の前後を行ったり来たりすることは、プラトンの頃にはよく知られていたようで、『ティマイオス』には

そこで、月は地球をめぐる第一の軌道へ、太陽は地球のまわりの第二の軌道へ、また暁の明星(金星)やヘルメスに捧げたといわれる星(水星)は、太陽と同じ速度で回転するが、しかし、太陽とは逆に向かう力を持った軌道に置いた。そのため、太陽とヘルメスの星(水星)と暁の明星(金星)は、同じように、互いに追いついたり追いつかれたりするのである。

(岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』より引用)

とある。内惑星が太陽から大きく離れた位置をとらないこと、すなわち太陽からの離角が一定の範囲内に収まることは広く知られていたわけである。ポントスのヘラクレイデス(紀元前390頃~310頃)は、このような知識を背景に水星と金星が太陽の周りを回っているとする部分的太陽中心説を唱えたものと思われる*7。ただしヘラクレイデスが部分的太陽中心説を唱えたとしても、単なるアイデアレベルだったのかも知れないし、同時代の天文学者たちが行っていたであろう最大離角や会合周期などの観測結果が反映されていたかどうかは不明である。

 部分的太陽中心説に数値パラメータがあったかどうかは不明だが、傑出した数学者であり天文学者でもあったエウドクソスによる天体理論である同心天球説の方には、数値パラメータが与えられていたようだ。同心天球説の惑星の運動モデルは、日周運動の第1天球と黄道を周回する第2天球と、惑星に往復運動を与える第3天球と第4天球の組み合わせからなっていて、水星と金星の第3天球の極は同じであるとされている。当然のこと水星と金星の第3天球の極は太陽と同じく1年周期で黄道を巡り、その位置は太陽が内惑星の往復運動の中心と一致するように設定されていたものと推測される。また同心天球説においては、会合周期に重要な第3天球の回転周期や往復運動の幅を与える第4天球の極の位置などに数値パラメータが与えられていたことは間違いないだろう*8

 アリスタルコスが彼の太陽中心説を考え出す前に、部分的太陽中心説を知っていたかどうかについては確実な証拠はないが、内惑星の動きが太陽の黄道上の位置に束縛されていることを知らなかったはずはない。太陽中心モデルであれば、惑星の天球が地球の天球の内側にあると、地球から見た惑星と太陽の位置に関する制限をかけることになるのは明白である。更に太陽を中心とした往復運動の幅の大小から惑星の天球の半径の大小についての判断も可能になる。

 

太陽中心説における内惑星の最大離角

水星の方が金星よりも最大離角が小さいので、太陽に近いのは水星の方だと判断される。このためアリスタルコスのモデルでは太陽、水星、金星、地球の順になっていただろうことは、ほぼ間違いないだろうと推測される。

 最大離角の数値が得られていれば*9、太陽から地球までの距離との比較した惑星の天球半径が求められる。残念ながらアリスタルコスのモデルに水星や金星の天球半径の具体的数値が与えられていたと期待する根拠は薄弱である。しかしながら同心天球説の方で、内惑星の往復運動の幅(逆行の幅ではない)が与えられていたのであれば、太陽中心説において内惑星の天球半径が与えられていたとしても不思議ではないだろう。

 現代的知識から見れば惑星軌道は楕円で太陽も中心ではなく楕円の焦点にあり、惑星の公転面も一致しないので、最大離角は観測する機会によって変動するし(したがって最大離角の最大値というものが存在する)、当時の観測方法の精度はさほど高くないだろうから、内惑星の天球半径として正確な値が得られていたはずもないが、サイズ感を実感できるような想像図を描くために、もっともらしい数値を与えてみることを試みる。さて、公転面が一致するとして平均軌道半径*10から求めた最大離角は、水星が22.8°、金星が46.3°である。アリスタルコスの時代には三角関数はないのだから、どこまで数値的に求めることができたかは分からないが、あり得そうな角度範囲を適当に想定して使ってみることにして、水星は15°以上30°以下、金星は45°以上52.5°以下あたりを考える*11。すると太陽から惑星までの距離は太陽から地球までの距離を1として、水星の場合は0.259以上0.5以下、金星の場合は0.707*12以上0.793以下、といった感じになる。便宜のためにそれぞれの上端と下端の値の平均を使うと、水星の場合は0.38、金星の場合は0.75といった具合になる。アリスタルコスがこの数値ぴったりな値を与えていた可能性はちょっとありそうにないが、それほどかけ離れていない粗い近似値を得ていたとしても想定可能な範囲内ではないかと思う。この数値を使ってモデルを描くと次のようなものになる。

内惑星の天球の大きさの比較

 次に、アリスタルコスの太陽中心説に含まれていても不思議ではないだろう、むしろ含まれていただろうと推測できることは、内惑星の天球の回転周期である。太陽中心モデルでも惑星の天球半径を考慮することなく惑星の公転だけを考えれば良いので、会合周期から惑星天球の回転周期を求めることができる。考え易いのは太陽から見て惑星と地球が直線上に来る内合から次の内合までの期間についてである。会合周期をs、地球の角速度(公転周期Tの逆数)を1/T、内惑星の角速度を1/t(公転周期tの逆数)とすると、初等算術の旅人算の要領で角速度の差の逆数が会合周期になるという関係を使えばよい*13。会合周期の数値については、エウドクソスによると水星の会合周期が110日、金星の会合周期が19か月とのことであるから*14、天球の回転周期(公転周期)を求めると、水星84.5日(0.23年)、金星222.5日(0.61年)となる。

 周期がより長い方が中心からより遠くを周回しているだろうとの考えに基づいて、天球の回転周期の大小から、水星の方が金星よりも太陽に近く、金星の方が地球よりも太陽に近い、と推測することも可能である。この推測による惑星順序は最大離角から求めた惑星順序に一致するため、アリスタルコスが内惑星の順序を決定していただろうとの推定はかなり確からしいものであると考えている。

 内惑星の天球回転の周期(公転周期)と最大離角の値が分かれば、天球半径の値に依存せずに、東方最大離角から西方最大離角へ至る日数を、初等算術における時計算の要領で計算することができる。ざっくりとした計算だと水星の場合は約40日、金星の場合は約150日となる*15。会合周期と比較すれば直ちに、東方最大離角から西方最大離角へ至る日数の方が、西方最大離角から東方最大離角へ至る日数よりもずっと短いことがわかる。天文歴同時代の理論的ライバルである同心天球説では惑星の往復運動は対称的なので、東方最大離角から西方最大離角へ至る日数と、西方最大離角から東方最大離角へ至る日数が等しくなってしまう。太陽中心説の方が現実を反映していて同心天球説によりも優れていると言える。だが、周転円説でも同様の優位があるにもかかわらず、歴史的には周転円説の同心天球説に対する優位点として強調されては来なかったので、恐らくアリスタルコスは東西最大離角間の期間の問題については気が付いていなかったのだろうと思う。

 内惑星の逆行(恒星に対して西進する)現象については、内合付近で内惑星が地球を追い越すときに起こるという定性的な説明を与えることは簡単だが、幾何学的に逆行の条件を求めることはそれほど簡単なことではない。歴史的にはアリスタルコスより後のアポロニオスが周転円説における留*16が起こる条件について理論的に解明するまでは、逆行については幾何学的に問題を解くことはできていなかったはずである。アリスタルコスの太陽中心説が、惑星の逆行について何かを述べたりしていたと考えることは難しいと思う。

 

*1:アルキメデスによる言及中に「恒星と太陽は不動」とあるので、恒星や太陽の日周運動の説明のために地球の自転が考えられていたことは明白である。また資料的価値はやや劣るが、プルタルコスが『月面に見える顔について』において、アリスタルコスが現象を”救う”(説明する)ために「地球が黄道に沿って周回しつつ自身の軸回りに回転している間に、天は静止している、と仮定した」と述べているので、太陽中心説の内容に地球の自転が含まれていたことは間違いない。一方、地球の自転というアイデア自体は、かなり古くからあったようで、アリストテレスが『天体論』において地球の自転に対して反論を展開している。

*2:アリスタルコスの時代にこう呼ばれていたわけではないだろうが、議論の便宜のために「内惑星」という言葉を使う。

*3:アリストテレスの『天体論』にも彼が観察した火星食についての記載がある。

*4:天動説(地球中心説)では宇宙の中心である。

*5:エラトステネスが太陽を惑星よりも地球に近いとしたことについては、カルキディウスの『ティマイオス註解』に記述がある。哲学者の説であれば、プラトンの『ティマイオス』やアリストテレスの『天体論』は、太陽が惑星よりも地球に近いとしている。

*6:アリスタルコスの時代には周転円説はまだ提唱されてなかったので、当時の太陽中心説の理論的ライバルは同心天球説であった。

*7:ラクレイデスが本当に部分的太陽中心説を唱えたかどうかについては議論があるらしい。

*8:エウドクソスの後にカリポスが天文現象を良く説明できるように天球を追加する改良案を提唱しているので、このモデルには観測結果との比較がある程度可能なレベルの具体的なパラメータが与えられていたと考えるべきである。

*9:もしもアリスタルコスの著作中に最大離角の値が書かれていたとしたら、『太陽と月の大きさと距離について』での記述スタイルから見て、例えば「四分円(直角のこと)の2分の1よりも大きく、六分円よりも小さい」的な表現か、あるいは「黄道十二宮一つと2分の1よりも大きく二つよりも小さい」的な表現であったのではないかと思う。

*10:水星は0.39天文単位、金星は0.72天文単位

*11:六分円(60°)の1/2が30°、1/4が15°、四分円の1/2が45°、それに六分円の1/8を加えると52.5°

*12:√2の近似値として99/70を使って計算しても良い。

*13:内惑星は内合の後に地球から見て太陽よりも西側に移動して西方最大離角をとるようになることから、内惑星の天球は地球の天球と同じ回転方向であり、かつ回転周期が短いことがわかる。

*14:数値はシンプリキオスの『天体論註解』に記されたもの。現代から見るとエウドクソスの数値よりもバビロニア天文学の数値の方が良く、それぞれ水星116日、金星584日。

*15:実際の値については、国立天文台歴計算室の天象長期版を使って色々な年での値が計算できるので利用してみたが、水星は変動が大きいが43日程、金星は142日程。

*16:順行と逆行が交替するときに惑星が恒星に対して止まっているように見えること。

アリスタルコスの恒星天球

 サモスのアリスタルコス(紀元前310頃~230頃)が太陽を宇宙の中心とする地動説(太陽中心説)を唱えたことは良く知られていて、自分もそれに関連する記事を書いたことがあるが、アリスタルコスの地動説はそれなりの知名度を持ちながらも、その中身については必ずしも十分に検討されているわけでもないようである。そのように思われるのは、書籍やネット情報でアリスタルコスの太陽中心説において恒星天球の半径について具体的な数値がなかったかのような記述になっている例を散見するからである。例えば、コペルニクスの『天球回転論』の邦訳*1の訳者解説では、アリスタルコスの太陽中心説の内容について、

(1)恒星と太陽は不動、(2)地球は太陽を中心として円軌道で回転し、(3)恒星天球は太陽を中心とし、その半径は膨大な大きさを持つ

としているし、天文学会の運営する天文学辞典のアリスタルコスの項では、

アリスタルコスの太陽中心説は、アルキメデスプルタルコスによって断片的に紹介されている。「天球の中心に太陽があり、それは不動で、地球が太陽をめぐっており、恒星の天球までの距離はとてつもなく遠い」という説を述べた書物を出版した、とアルキメデスは紹介し、それは単に数学的な話だとした。またプルタルコスは、恒星の日周運動は地球自転によると信じていたヘラクレイデスの影響をアリスタルコスが受けているという。地動説を唱えた最初の人と考えられているが、当時その説はほとんど支持されなかった。

astro-dic.jp

となっている。このように、恒星天球の半径には具体的な数値がなかったかのような記述になっていることが多い。しかし、アルキメデスの『砂粒を数えるもの』を読むと、アリスタルコスの太陽中心説において、恒星天球の半径についてもう少し具体的な情報が与えられていることがわかる。

 ご存じのように、大多数の天文学者たちの宇宙と申しますのは、その中心が地球の中心であり、その半径が太陽の中心と地球の中心とのあいだの直線に等しいような、球のことでございます。これは、あなたが天文学者たちからお聞きおよびの宇宙の輪郭でございます。ところがサモスの人アリスタルコスは、いくつかの仮説からなる書物を著わしまして、宇宙はいま申しましたものよりも幾層倍も大きいという結論を、それらの仮定から導きだしたのでございます。

 と申しますのは、アリスタルコスの仮定しましたのは、(一)諸恒星と太陽は不動のままであるということ、(二)地球は太陽の回りに一つの円周を描いて回転し、その円軌道の中心に太陽が横たわっているということ、(三)諸恒星の球は太陽そのものと同じものを中心とし、その球の大きさは、彼が地球はそこを回転すると仮定しましたその円の、恒星への距離に対する比が、球の中心のその曲面に対する比に同じだ、ということでした。

 だが、こういうことがありえないのは、みやすい道理でございます。と申しますのは、球の中心にはなんらの大きさもありませんので、中心は球面に対してなんらかの比をもつとは認めることができないからであります。そこで、アリスタルコスはこう考えたとみるべきであります。すなわち、地球はいわば宇宙の中心だとわれわれは考えますから、地球の、上述しました宇宙に対する比は、彼が地球がそこを回転するとしました円をそのうちに含む球の、恒星球に対する比に同じである、ということであります。と申しますのは、彼はこのような仮定に合うように(天体)現象の論証を運んでおり、またとりわけ地球がそこを運動すると彼が考えている球の大きさが、われわれの現にいう宇宙に等しいと仮定しているようにみえるからであります。

(三田博雄訳『砂粒を算えるもの』((田村松平編『世界の名著9:ギリシアの科学』所収)を一部改変

ここで、アルキメデスが”宇宙”と呼んでいるのはアリスタルコスのモデルにおける地球の天球(天動説における太陽の天球)であるので、

(A) (地球の天球半径/地球半径)=(恒星天球半径/地球の天球半径)*2

であるとアルキメデスは解釈している。アリスタルコスの太陽中心説の原典が失われているため、アルキメデスの解釈が妥当かどうかの判断は難しいところではあるが、現存するアリスタルコスの著作『太陽と月の大きさと距離について』の仮定2において、「地球は月の動く天球に対して点であり中心であるという関係にある」*3と表現しているので、アリスタルコスの言葉遣いでは”球の中心”という言葉で天球の中心に位置する天体(太陽中心説なら太陽、地球中心説なら地球)を指しているというのもありそうなことである。もしかすると太陽中心説にふさわしく「太陽は地球の動く天球に対して点であり中心であるという関係にある」とでも表現していて、

(B) (地球の天球半径/太陽半径)=(恒星天球半径/地球の天球半径)

であったかもしれない。ここで重要な点はアリスタルコスの太陽中心モデルにおいて恒星天球は有限の大きさを持つとされていることである*4

 さて、天体や天球の大きさに関する数値については、アリスタルコスの『太陽と月の大きさと距離について』において記述があるのだが、それらの内容は次のようなものである。

  • 太陽と地球との距離は月と地球との距離の18倍よりも大きく20倍よりも小さい(命題7)。
  • 太陽の直径は月の直径の18倍よりも大きく20倍よりも小さい(命題9)。
  • 太陽の直径は地球の直径に対しては19:3よりも大きく43:6よりも小さい(命題15)。
  • 地球の直径は月の直径に対して108:43よりも大きく60:19よりも小さい(命題17)。
  • 月の直径は地球から月への距離の30分の1よりも大きく45分の2よりも小さい(命題11)。

 これらの数値の中で、天体の大きさと天球の大きさの関係について述べているのは、命題11における月の直径と月への距離(月の天球の半径)の比の値である。この数値は大雑把に言うと*5、仮定4で「月は黄道十二宮の一つの15 分の1の部分をなす」*6としていることから月の視直径(角直径)について2°として、それと天球の半径との比較で求められている。この関係は『太陽と月の大きさと距離について』の中では明示的には言及されていないが、太陽と月の視直径がほぼ同じなので*7、太陽の直径と地球から太陽への距離の比についても成立する。

 しかし、月の視直径について『太陽と月の大きさと距離について』の2°という値をそのまま受け入れることには問題がある。というのは、アルキメデスが『砂粒を数えるもの』の中で「アリスタルコスは、太陽が獣帯圏のほぼ1/720に見えることを発見しましたので」(三田訳)、と述べているので、太陽中心説を述べた失われたアリスタルコスの著作の中では太陽の視直径を0.5°としていた可能性もある*8。ここはアルキメデスの証言を信用して、太陽の視直径の値を0.5°として考察を進める。

 地球から太陽への距離をS、太陽の半径をsとし、便宜的に円周率πの近似値として22/7を用いる*9と、2S×(22/7)=2s×720 から、S/s≒229、を得ることができる。考察の便宜のため、アリスタルコスが数値を挟む区間で表示しているところを上端と下端の平均した値を用いることにすると、

  • 太陽と地球との距離は月と地球との距離の19倍である。
  • 太陽の直径は地球の直径の6.75倍である。
  • 地球から太陽への距離は太陽の半径の229倍である。

といった太陽中心モデルのパラメータを得ることになる*10。このモデルでは地球から太陽への距離すなわち地球の動く天球の半径は地球の半径の約1,546倍ということになる*11。もし(B)の解釈を採用すると恒星天球の半径は地球の動く天球の半径の229倍であり、また354,034地球半径となる*12。図に書くとよくわかるが、半径22.9cmの恒星天球の中心にぽつんと半径1mmの地球の動く天球が存在することになり、太陽と地球だけのモデルでは、パッと見の見掛け上は太陽が中心でも地球が中心でもあまり違わない*13

解釈(B)によるアリスタルコスの恒星天球

 この恒星天球の半径が地球の動く天球の半径の229倍であるモデルの場合、恒星の年周視差は約0.5°になる。年周視差0.5°という値は太陽の視直径0.5と変わらないが、年周視差を検出できるとアリスタルコスが予想していたかのかどうかわからないし*14、そもそも恒星の年周視差の問題をアリスタルコスが意識していたかどうかもよくわからない。ただアリスタルコスは『太陽と月の大きさと距離について』の中で、月食で太陽-地球-月が並ぶ際の地球の影の作る円錐を論じているので、地球上の異なる地点から太陽を見る際の視差(太陽視差)のことは理解していたはずである。アルキメデスの同時代人エラトステネスが地球の大きさを測定した際には太陽視差が無いかあるいは無視できるものとして扱っているので、もしかすると、年周視差が太陽視差と同程度になるようにアリスタルコスが考えていた可能性もないではない。もしそうだとすれば、アルキメデスの採用した(A)の解釈のように、恒星天球の半径と地球の動く天球の半径との比が地球の天球の半径と地球半径との比と同じであるとして、恒星天球の半径を地球の動く天球の半径の1,546倍としていた可能性もある。この解釈(A)の1,546倍モデルでは年周視差は約0.07°になるので、ほぼ間違いなく当時の観測技術では年周視差は検出できないであろう。

解釈(A)による太陽視差と年周視差のアナロジー


 アリスタルコスの太陽中心説の原典が失われているため、(A)と(B)のどちらがより適切な解釈であるのかについては決め手はない。しかしながら、アルキメデスによる「諸恒星の球は太陽そのものと同じものを中心とし、その球の大きさは、彼が地球はそこを回転すると仮定しましたその円の、恒星への距離に対する比が、球の中心のその曲面に対する比に同じだ、ということでした。*15という言及の中の「球の中心」というところに「球の中心たる太陽」を入れることになる解釈(B)の方が、文章解釈として飛躍が少なくて良いのではないかと思う。また、アリスタルコスが地球の公転軌道を「円」と呼んでいるので「球の中心」という箇所を「(地球が公転する)円の中心」と置き換えて、「円」と恒星天球の半径の比が、「円」の半径とその中心である天体(つまり太陽)の半径との比と同じだと読む方が自然ではないかと思う。アリスタルコスが地球中心説を考えた頃は、ライバルとなる幾何学的な天体運行のモデルはエウドクソス由来の同心天球説であり、その時代に年周視差の検出が研究課題として意識されていたとは考えにくい*16。このためアリスタルコスには、年周視差が未検出であることを説明しようとする動機は乏しいと思われる。年周視差を検出できない理由を考える必要があるのは、年周視差の未検出が太陽中心説の弱点となるという批判が出てきてから、つまり太陽中心説が提案されたよりも後になってからであろう。むしろライバル理論には説明不可能な年周視差が検出されれば自説に有利になるという状況なので、わざわざ自説の証拠が見つけにくくなるような解釈(A)のモデルを考える積極的な理由は見当たらず、素直に解釈(B)のモデルであったのではないかと思う。

 

*1:高橋憲一訳『完訳天球回転論』(みすず書房

*2:地球の天球半径は地球と太陽の中心間距離で、すなわち現代の天文単位(astronomical unit)に相当する。

*3:T.L.ヒースによる英訳では”That the earth is in the relation of a point and centre to the sphere in which the moon moves. ”となっている。

*4:G.E.R.ロイドの『後期ギリシア科学』では、アリスタルコスが恒星が無限に遠くにあるとしたと解釈されているが、その解釈だと地球の天球半径と球の中心の無限小あるいは零に対する比が、無限大の恒星天球半径と地球の天球半径との比と比較されていることになる。当時のギリシア数学では零はもちろん無限小であっても比例論の対象ではなかったのだから(アルキメデスは「比をもつとは認めることができない」と言っている)、アナクロニズムに陥っていると思われる。)

*5:アリスタルコスはもっと精密に月の直径と視直径の幾何学的関係について論じている。

*6:That the moon subtends one fifteenth part of a sign of the zodiac.

*7:アリスタルコスは明示的には仮定としては掲げずに、皆既日食の際に太陽と月が完全に重なることの議論を行う命題8において、「しかし実際のところ、日食で全体が覆われるのであり、かつ日食で覆われたままであることはない、このことは観察から明らかである」(But it is in fact totally eclipsed and does not remain eclipsed: for this is manifest from observation.)と言って、太陽と月の視直径が同じであるとしている。

*8:『太陽と月の大きさと距離について』では月の視直径について述べているのに対して、アルキメデスは太陽の視直径について言及しているので、『太陽と月の大きさと距離について』とは異なる資料を見ていたとも推測できる。

*9:アルキメデスはその著作『円の測定』で、円周率が22/7よりも小さいことを示しているが、アリスタルコスがそのような近似値を知っていたかどうかはわからない。

*10:地球から月への距離は太陽半径の約12倍。

*11:プトレマイオスの『アルマゲスト』では、異なる方法で地球から太陽までの距離を求め、地球半径の1,210倍としているので、大きくは違わないが、アリスタルコスの方が少し大きいことになる。

*12:プトレマイオスの『惑星仮説』では恒星天球の半径は地球半径の19,865倍(プトレマイオスの体系において地球から太陽までの距離の16.4倍)なので、アリスタルコスの恒星天球の方がかなり大きいことになる。

*13:このモデルで太陽と地球の密度が同じと仮定した場合、太陽と地球の共通重心は太陽の中心から0.74太陽半径のところにある。現代の知識では地球-月の共通重心は地球中心から約0.74地球半径のところにあるので、偶然の一致とは言え興味深い。ただ天秤の釣り合いや重心の問題に詳しいアルキメデスの場合はともかく、アリスタルコス自身がこのような重心位置に関する考察をしていたと想像するのは行き過ぎであると思う。

*14:同一時刻での測定とはなりえない年周視差の検出は、当時の技術では非常に困難であったであろうと思われる。

*15:該当部分のT.Lヒースの英訳は”that the sphere of the fixed stars, situated about the same centre as the sun, is so great that the circle in which he supposes the earth to revolve bears such a proportion to the distance of the fixed stars as the centre of the sphere bears to its surface.

*16:アリスタルコスに先立って地球の自転のアイデアを考えたポントスのヘレクレイデスが、金星と水星が太陽を中心に回る部分的太陽中心説を唱えたと言われているが、それも宇宙の中心は地球であり年周視差について考えることはできない。

外野から見たブッダゴーサを巡る仏教学の論争

 仏教学者清水俊史の著作『上座部仏教における聖典論の研究』に対する出版妨害事件を含むアカハラ問題で一部の注目を集めた、パーリ仏教(スリランカ上座部大寺派)の大注釈家ブッダゴーサ(5世紀頃)*1の位置づけを巡る馬場紀寿と清水俊史の論争について、佐々木閑が評論を公表しているのに気が付いた。

 「ブッダゴーサの歴史的位置づけをめぐる馬場紀寿氏と清水俊史氏の論争」というのがそれで、第1部の序言でアカハラ問題について触れ、論争の中身については第2部にまとめられている*2

自分は素人ながら仏教の歴史については興味を持ってきたので、この佐々木の評論を読む以前に、清水の「パーリ上座部における「小部」の成立と受容」とかそれを受けて馬場が書いた「小部の成立を再考する」も既に知っていたが、どちらの論文も素人には読み易いものではなく佐々木の評論の方がすっきり整理されていると思う。佐々木の評論のおかげで自分なりに考えを整理することができた。

 知っている人には説明不要だと思うが、パーリ三蔵の経蔵(スッタ・ピタカ)には漢訳仏典の四阿含(長、中、雑、増一)に対応する4部(ディーガ・ニカーヤ、マッジマ・ニカーヤ、サンユッタ・ニカーヤ、アングッタラ・ニカーヤ)以外に小部(クッダカ・ニカーヤ)という経典の集成がある。この小部はパーリ仏教独特の集成なのであるが、これには、ダンマパダ(法句経)やジャータカといった中国にも伝わって漢訳仏典になったものに加え、最古層の経典と考えられるアッタカヴァッガ(義品あるいは八偈品)やパーラーヤナ(彼岸道品)を含むスッタニパータが収録されているため、いわゆる原始仏教の愛好者には重要視されている。ところが漢訳仏典には小部に対応する経典の集成はない*3

 この小部がパーリ仏教の中で正典(the canon)たる地位をいつ頃に得たのかという問題に対して、馬場はブッダゴーサが仏典に対する注釈書を著す中で小部に収録される経典を定めたことで確固たる正典の地位を得ることになったとみなし、ブッダゴーサの正典確定作業により現在に至るパーリ仏教の性格が決定づけられたと主張している。そしてこのような正典確定化作業はブッダゴーサが独自の思想によって成し遂げたものなので、ブッダゴーサをスリランカ上座部大寺派の現在に繋がる思想的基盤を確立した実質的な創始者とみなすことができるとまで主張するのである*4

 このブッダゴーサをスリランカ上座部大寺派の思想的基盤を固めた思想家とする馬場説に対して、清水は資料解釈の面から疑義を呈し、ブッダゴーサによる小部の正典化も決定的なものではなかったとして、ブッダゴーサは独創的な思想家ではなく上座部大寺派の流れの中の注釈家であると批判している。

 さて清水の論文によると、1)小部を経蔵に組み入れるパーリ経蔵の5部編成はブッダゴーサ以前に終了していたが、2)小部は他の4部のニカーヤと比べて重要視されず収録される経典も一定でなかった。3)ブッダゴーサが小部の内容を15の経典としたことで上座部大寺派の定説となるが、ブッダゴーサは積極的・能動的に正典確定化を企図していたわけではない、ということである。清水の論文では2)の小部が他のニカーヤほど重要視されていなかった証拠として結集*5伝承や隠没*6伝承において小部が他の4ニカーヤよりも一段低いものとして扱われていることを実例を列挙して示す。そのために論文中で示される資料はいずれの資料もブッダゴーサが著した注釈書*7である。この部分はブッダゴーサが彼以前の注釈を参考に注釈書をまとめる中で、4ニカーヤに収録されないジャータカ等の経典群を意識して記載していること、それらの重要性が4ニカーヤより軽んじられ意識される経典群の範囲も一定しないことを上手く論証していると思う。馬場の説ではブッダゴーサ以前は経蔵が5部からなるとする見解があったにせよ、小部という経典集成は確立していなかったとしているので、清水の批判は検討に値する。実際、ブッダゴーサよりも少し先立つ時期にスリランカに滞在していた法顕(大寺派と対立するライバルの無畏山寺に滞在していた)がスリランカで五分律(化地部の律典)と長阿含、雑阿含、雑蔵(クシュドラカ・ピタカ?)を得た*8ということなので、当時スリランカに雑蔵という経典の集成はあったのであろう。法顕の雑蔵と大寺派の小部がどの程度の共通性があったかは不明だが*9、清水の論文を見るとジャータカとダンマパダには専門の誦者(経典を朗唱する僧)がいたらしいので、その二つは法顕が雑蔵と言及した集成にも入っていた可能性がある。法顕の雑蔵がパーリ小部に対応するしないに関わらず、小部または雑蔵というような集成がブッダゴーサ以前にあったのは間違いないだろうから、馬場の説はそのままでは成立せず主張を弱めない限り維持できないだろう。

 しかし清水自身も記述しているように、その論証からはその当時の小部が現在のパーリ三蔵のように経蔵の中に位置づけられていたのか、それとも経蔵以外の論蔵(あるいは律蔵)の中なのか、あるいは三蔵の外に第4の蔵(ピタカ)として位置づけられていたのかを判断できるものではない*10。それなのに小部が経蔵の第5ニカーヤ(「狭義の小部」)である話と律蔵と論蔵とその他の経典(つまり「狭義の小部」)をまとめた「広義の小部」の話を出してきて、ブッダゴーサ以前は狭義の小部として用例がほとんどだと主張する*11が、その用例はパーリ律、『ミリンダ王の問い』、『島史』(ディーパワンサ)といったものから採用されているが、これがブッダゴーサ以前から経蔵5ニカーヤ説が主流だった証拠になるのなら結集伝承や隠没伝承の話は不要になると思われるのだが、そうでないことからも分かるように証拠としての力はあまり強くない。どうも清水は馬場説の論証を逐条的に批判することに熱心なあまりバランスが取れていないように見える*12。一方で馬場の反論論文の方も、馬場は5ニカーヤ説の成立下限がブッダゴーサの時期にあたると論証しているのだから清水の批判は当たらないと*13清水の誤読を主張しているので説得力があるとは言い難い。

 そして清水はブッダゴーサと小部の構成についての関係について、小部を構成する経典の範囲についてブッダゴーサの文章として、ディーガ・ニカーヤの注釈書から引用し、

ここで説かれる五部という範疇と、それぞれの構成内容とが、その後の上座部において標準となった。この事実からも、ブッダゴーサが『長部註』の冒頭部に残した「仏語の分類」が、上座部聖典観に大きな影響を及ぼしたことは疑いない。

と述べて、結果的に小部に収録される範囲の確定に決定的な影響を与えたことを認めつつ、著作の他の箇所で小部の経典の範囲が必ずしも一定でないこと指摘する。そして清水はブッダゴーサが独自の思想をもって小部の範囲を定めようという積極的・能動的意図はなかったと考えられるとして馬場説を批判する。しかしながらブッダゴーサの注釈書の中の記述のゆらぎはそれぞれの箇所の執筆時期によるブッダゴーサ自身の思想的発展の可能性も否定できない*14ブッダゴーサが一群の注釈書を執筆する当初から「小部の構成内容を完全に定めていた」ことは否定できても、「小部の構成内容を定めようとする意図を持っていた」ことまでは否定することはできない。ブッダゴーサの注釈の各部分の執筆時期は専門家の間で色々と議論されているのだとは思うが、ここは慎重になるべきである。そして、清水がブッダゴーサの影響力を認めて

ブッダゴーサ著作において言及される小部の構成内容には、一貫性があるとは言い難い。しかしながら、ブッダゴーサが『長部註』冒頭部の「仏語の分類」において小部として十五書を認めたことは、その後の上座部にとって大きな指針となったことは明らかでである。

と評価しているように、「仏語*15の分類」は、単なる語義の注釈というよりも正典の範囲を確定しようとする上座部大寺派*16にとってのマニフェストとして受けとられたことは間違いないだろう。そしてブッダゴーサの「仏語の分類」により、小部の構成が確定し経蔵の第5部として位置づけられることで、それまで外典扱いされがちだった小部の正典化が確立したと評価すべきだろう。この点では馬場の学説は清水の批判によっては揺るがないものと思う。

 また伝承によればブッダゴーサは律や各ニカーヤの注釈書をまとめるにあたって、それまでにシンハラ語で書かれていた諸注釈などを整理・再構成してパーリ語の注釈書にまとめたとされる。『清浄道論』が大寺派の教理・修道論の綱要書であることも踏まえると、ブッダゴーサは単なる注釈家というよりも体系化を志向した編纂者として色彩が濃厚であるように見える。

 清水ー馬場論争から少し引いたところから、ブッダゴーサのパーリ仏教史における地位を考察すると、『清浄道論』と注釈書*17パーリ語で著述することで仏教公用語としてのパーリ語の地位を確立した人物と評価できるだろう。すなわち「真の仏説は聖言語であるパーリ語で書かれたものだけである」という上座部大寺派の基盤をなすテーゼの下に、パーリ語公用語化を実現させた活動家とみるべきではないだろうか。そう考えるとパーリ語を仏教公用語として確立するという意図を持って、ブッダゴーサ以前にはシンハラ語で書かれていたりしたニカーヤの注釈書を整理統合しパーリ語化しようとを試みたと考えることができる。またパーリ語の仏教公用語化にとって、パーリ語で流通していたであろう韻文経典を含む小部の経典群を正典として経蔵に組み込むのは必要な手続きであったと言えるのではないだろうか。このブッダゴーサをパーリ語の仏教公用語化の活動家であるとする仮説は、大寺派のライバルである無畏山寺派の言語使用状況を検討してみることで検証できるかもしれない。『清浄道論』の種本との見方もある無畏山寺派の『解脱道論』や法顕が無畏山寺で得た五分律には幸いにも漢訳がある。これらの漢訳の音写された語彙を検討すれば元の言語がパーリ語であったかシンハラ語サンスクリットであったかが推測できるだろう*18。もし無畏山寺派の方では仏教公用語としてのパーリ語の地位が確立していなかったのであれば、ブッダゴーサは上座部大寺派の「パーリ語が聖言語である」という言語思想を持って注釈書を纏め上げ、無畏山寺派に対抗する手段としてのパーリ語の仏教公用語化を実質的に達成した人物と評価できるのではないか。そうであるなら、ブッダゴーサは馬場の言うような唱道宗教の創始者的な宗教思想家でもなく、清水の言うような偉大だが単なる注釈家でもないということになる。

 アカハラ問題は看過すべからざる大問題であると思うが、論争の中身そのものを検討する上では引き摺られ過ぎないようにすべきだろう(佐々木の評論もそういう立ち位置かと思う)。外野から見ると、ブッダゴーサは上座部大寺派を特殊な部派として成り立たせることに意図をもって重要な寄与をしたキーパーソンであり、その評価は馬場と清水の両者の中間ぐらいに位置付けるべきであるように思う。

*1:ブッダゴーサは南インド出身でマハーナーマ王(在位410~433)の時代にスリランカに渡ったとする伝承があるので、漢字文化圏を代表する訳経僧である鳩摩羅什(344~413年)や5世紀初頭にスリランカを訪れた法顕(337~422年、スリランカ滞在は409~411年)らの次の世代にあたるようだ。

*2:佐々木の評論は続きがあるようだが公刊されているのかどうかはよく分からない。

*3:正確に言うと対応する集成が漢訳されていないものの、他の部派に類似の集成が全くなかったわけではなく、部派によっては雑蔵(クシュドラカ・アーガマあるいはクシュドラカ・ピタカ)と呼ばれる経典の集成があったようだ。これについては馬場や清水も論文中で言及しており研究者の間ではよく知られているようで、少し古めの仏教史の教科書である平川彰『インド仏教史』(1974)にも記述がある(上巻p.175)し、英語版のWikipediaにも項目が立てられている。

*4:馬場の主張はブッダゴーサの著作『清浄道論』(ヴィスッディ・マッガ)に関する論点がもう一つの柱になっているが、佐々木に倣ってそれについては省略する

*5:正しい教えを保つために僧が集まって合議制で経典や律を暗唱するなどして確認や確定を行う集会、粗っぽく言えばキリスト教公会議に類したもの

*6:正しい教えが段々と失われていくプロセス

*7:清水の論文中でDNAと略称されるディーガ・ニカーヤの注釈書(Sumangalavilasini、結集伝承と隠没伝承(β))、SNAと略称されるサンユッタ・ニカーヤの注釈書(Saratthappakasini、隠没伝承(α))、ANAと略称されるアングッタラ・ニカーヤの注釈書(Manorathapurani、隠没伝承(γ)。

*8:法顕の仏国記のスリランカ滞在の部分はネットで訳文を見ることができる。

*9:馬場はこの点に関心を持っているようだ。2017 年度 実施状況報告書 (KAKENHI-PROJECT-16K02166)

*10:結集伝承や隠没伝承で他の経典よりも扱いが相当に軽いことを考えると三蔵外の外典扱いではなかったかとも思われる。また清水も馬場も小部の韻文経典(偈頌経典)は教団内で主要聖典として扱われる散文経典とは別系統の在俗信者向けの補助的文献的位置付けであったとする立場である。

*11:清水論文の第二章第二節第二項

*12:説一切有部において雑蔵(クシュドラカ・ピタカ)/小阿含(クシュドラカ・アーガマ)に関する扱いが一定しないことから、説一切有部聖典の範囲にゆらぎがあったことを清水は認めているので、少なくともブッダゴーサ以前に経蔵5ニカーヤ説があったことを示すだけでは、それが上座部大寺派の主流を占めるまで至っていたことを論証することにはならない。

*13:馬場はかなり感情的になっているように見える。

*14:ブッダゴーサが参照した複数の古注釈間の不統一を整理しきれなかったことを反映している可能性もある。

*15:仏陀の正統な教説のこと

*16:ライバルである無畏山寺派が受け入れていた大乗仏典(使用言語はサンスクリットガンダーラ語と思われる)を正典の資格がないとして排除するのに都合良かった。

*17:清水の論文中にもあるようにと4ニカーヤの注釈書はブッダゴーサの真作と見て間違いないようである。伝統的にブッダゴーサの真作とされてきた律の注釈書サマンタパーサーディカー(Samantapasadika)は真作性に疑問の声もあるようだ。

*18:初期大乗仏典の漢訳の一部(例えば正法華経や道行般若経)は音写された語彙からガンダーラ語の原本の存在が推定されている。

秋篠宮悠仁親王殿下の論文って研究ミスコンダクトではないのか?

 秋篠宮悠仁親王殿下が筆頭著者になった論文が発表されたというニュースがあって、ちょっとびっくりしてしまった。悠仁親王殿下はまだ高校生でいらっしゃるので、学術論文で筆頭著者になるような研究実態があるのだろうかというのは当然の疑問である。

 それで調べてみると、秋篠宮悠仁、飯島健、清拓哉「赤坂御用地のトンボ相」(国立科学博物館研究報告 A類(動物学). 49, 129–153 (2023))というのが問題の論文のようだ。「国立科学博物館研究報告 」は著者の少なくとも1名が国立科学博物館の職員であることが要求されるので、雑誌というよりも科学博物館の紀要のようだが、それにしても査読ありの論文である。責任著者は科学博物館の清拓哉という人のようだが、論文の研究のどの程度が、悠仁親王殿下の寄与なのだろうか?旧帝大の理系の学生でも研究室配属前の3回生だと、よほど優秀でないと学生実験のレポートに毛の生えたような代物しか書けないのだから、悠仁親王殿下が執筆されたとするのは無理がありすぎる。

 規範のゆるゆるの分野もあるにはあるようだが、研究倫理の標準的な教材にあるような理解では、学術論文のオーサーシップは例えば2015年に学術会議がまとめた「 科学研究における健全性の向上について」という報告の中では

研究成果の発表物(論文)の「著者」となることができる要件は、当該研究の中で
重要な貢献を果たしていることである。例えば、①研究の企画・構想、若しくは調査・実験の遂行に本質的な貢献、又は実験・観測データの取得や解析、又は理論的解釈やモデル構築など、当該研究に対する実質的な寄与をなしていること、②論文の草稿を執筆したり、論文の重要な箇所に関する意見を表明して論文の完成に寄与していること、③論文の最終版を承認し、論文の内容について説明できること、の全ての要件を満たす者について著者としてのオーサーシップを付与することが考えられる  。

とある。そこで件の論文の方であるが、中を読むと

赤坂御用地のトンボ類については,2002年から2004年にかけて,初めて調査が行われ,24種が確認された(斉藤ほか,2005)が,その後,赤坂御用地におけるトンボ類の調査報告は,15年以上行われていない.著者らは,2012年から2022年にかけて赤坂御用地内のトンボ類を調査しており,本論文ではその調査内容を報告するとともに,前回の調査結果と比較した内容についても報告する.

(アンダーラインは引用者による)

この部分から判るように2012年に研究が開始されているので、この研究の企画・構想に関しては2012年に小学生だった悠仁親王殿下によるものではないこことは明白であろう。悠仁親王殿下は観測データの取得に関しては貢献(どのくらい?)があるのかもしれないが、論文の内容について説明されることが可能なのであろうか?その貢献に比して不相応であるならギフトオーサーシップと言わざるを得ないのではないだろうか。

”空飛ぶクルマ”の方がオスプレイよりも危ないんじゃないの?

 昨日、米軍のCV-22オスプレイ屋久島沖で墜落する事故があって、NHKとかのニュースでは大きく取り上げている。オスプレイも初期は事故が割と多かったので、危険性云々が色々といわれるが、初飛行(1989年)から34年、運用開始(2007年)からでも16年も経過しているし、400機以上が生産されて運用されているので、安全問題についてはある程度枯れてきていると見なして良いようだ。危険が全くないとは言わないけれど、それを言ったら普通のヘリコプターでも時々墜落事故が起きている。例えば今年4月の陸自のUH-60JA*1の墜落事故は記憶に新しいところだ。だからオスプレイの危険性を殊更言うのはちょっと言い過ぎではないかと思う。

 一方で今日、西村康稔経済産業大臣が2025年万博の「開幕500日前イベント」で、”空飛ぶクルマ”について「飛ぶか心配している方いますが、空飛ぶ車、必ず飛びますから!」と言ったとか伝えられている。”空飛ぶクルマ”というのは小型の電動VTOLなので、人間を輸送するサイズのものは技術的にはあまり成熟していない*2上に、実運用の実績がほとんどない状態なので、その安全性については未知数と考えるべきだと思う。極端にネガティブに考える必要はないが、ある程度の不具合や事故の情報が集まらない間は、あくまでも実験期間と考え、想定外の事故が起きても不思議はないものと考えるべきだろう。

 個人的な意見を言わせてもらうと、オスプレイに乗る方が”空飛ぶクルマ”よりも安心な気がする。

*1:UH-60ブラックホークの派生型

*2:例えば日本における最初の”空飛ぶクルマ”の型式申請は、SkyDrive社によるもので2021年の申請