W.ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」という有名な論考がある。
これは19世紀から20世紀初頭にかけての複製技術の発展によって
複製の大量生産が可能になったことによる
芸術作品の在り方の変化を論じたものとして知られている。
それまでの伝統的な芸術作品にとって重要だった
「いま、ここ」にある一回限りという特性「アウラ」が失われ
芸術作品は大衆的な受け手の側に繰り返して展示されるものとなったこと、
そしてその新しい芸術作品の典型として
制作上の本性からしてアウラを欠く「映画」が論じられている。
残念ながらベンヤミンの議論の続きは政治的な話に移っていて、
複製品としての芸術を市場に送り出す産業については、
少ししか触れられていない。
ところで合法違法を併せたネット配信やファイル交換などによって
映画産業とか音楽産業とかが大きな影響を受けていることは周知の事実だ。
先日取り上げた岩崎夏海の「音楽業界はなぜ縮小したか?」も
そういったビジネス論議の一角を占めていると見てよいだろう。
現代ではデジタル技術の発展で莫大な費用を掛けることなく、
いわばハンドメイドで容易に複製品が作られ流通してしまうようになって
大資本によって生産され市場に流通する商品としての
複製品の採算性が低下していることが大きな問題だとみなされている。
著作権の問題もこの流れの中の一コマだと言えるのかもしれない。
複製品からは更なる複製品が生み出されるのみならず
また複製を利用した二次創作が容易になりそれが流通している。
著作権の問題があるので紹介しないが、
様々な作品からサンプリングしたりマッシュアップした二次創作物、
例えば本来は関係のない音楽と映像を合成した私製ビデオクリップといったものは
YouTube等でも多数見ることが出来る。
こういった事態について
大資本に独占されていた複製技術の大衆への解放と
独占資本による市場支配の崩壊という議論に持っていくのは
60年代ヒッピー文化的なカウンターカルチャー論のように思え、
単純だし楽天的過ぎて何となく居心地が悪い。
ペシミスティックに考えればノイズの限りなき発生によって
エントロピーが増大し芸術の熱的死に向かうとも考えることもできる。
さてベンヤミンの議論に戻れば、
消費物としての複製された芸術の商品価値が暴落したとき
市場原理の支配する社会では気晴らしとして価値も損なわれ、
耽溺する幻想を失った大衆は宗教的な儀式に回帰するのかもしれない。
例えば音楽業界ではCDなどの媒体の売り上げよりも
ライブへの動員がミュージシャンの真価を示すと考えられ始めていることは
そういったことの兆候かもしれない。
コンサート会場でデビルホーンを被りメロイックサインを掲げる姿は
まだまだ微笑ましいものだが、
ファナティックな宗教に大衆が動員される姿を重ね合わせると、
「芸術よ生まれよ、世界は滅ぶとも」と叫んだ時代の再来を幻視させる。