地獄のハイウェイ

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ボクシングファンから亀田兄弟が嫌われるのは何故か

昨日の亀田大毅の試合は見ていないので論評しない。
ここで考えたいのは昨日の試合ではなく、
亀田兄弟に対する嫌悪の感情が、
普通の人や他の格闘技のファンよりも
ボクシングファンの間で、
特に強いように思われるということ。

世界タイトル戦に限らず生で試合を見るために、
お金を払って試合会場に行くようなコアなファン層を中心にした人達は
ボクシング業界のダークな部分についても
十分に知っているだろうとも思うのだが、
そういう人達ほど亀田兄弟に対して
強い拒絶反応を示しているような印象を持っている。

それであれこれ考えてみたのだが、
ボクシングファンが他のスポーツや格闘技と違ってボクシングを好む、
その点にこそ亀田兄弟が嫌われる秘密がありそうな気がする。

ボクシングはその実態はどうであれ、
日常生活で押し隠している暴力衝動や野獣性を
束の間解き放つカタルシス
売り物にするような格闘技ではない。
倒れた相手に馬乗りになって殴りつけるような
喧嘩では当たり前の攻撃は許されない、
とても制限の多いルールの中で闘うことを強いられ
更には減量のための厳しい節制を経なければ、
試合に臨むことさえ許されない。
スターの享楽的なゴシップで満ち溢れた芸能界などとは
ある意味とても対照的な世界。
関係者にはその筋の人も少なくないと思われるのに
ボクサーが一般人に手を出すことはタブー視され、
いわゆる武勇伝はどちらかと言えば、
ボクシングに出会う前のエピソードとして語られるもの。
むしろ若い時分には札付きのワルだったチャンプが
勝利の後のリングで幼い子供を抱きかかえて微笑むパパになるのが
自然な光景であるような格闘技。
そこには「悪役」の存在は相応しくないようなスポーツ。

また、ボクシングについて好んで語られる物語には、
社会の理不尽さによって貧困と犯罪の渦巻くスラム街から
己の拳だけで勝負することで栄光をつかむというような話が多い。
傷害事件を起して少年院のような更生施設でボクシングに出会って
犯罪社会に堕ちることから逃れて真っ当な社会で成功者となる、
そんなストーリーが語られることが多い。
たとえ運の巡り合わせが悪くてチャンピオンになれなくても、
引退後には普通の市民として余生を送る、
そんな心象風景がボクシングファンの間には共有されているように見える。
現実の興行としてのボクシングがどうであれ、
そのような物語を好む人達が
ボクシングファンの中核をなしてているではないだろうか。

だからボクシングに期待されているものの大きな部分は、
それを身に着けることで粗暴さを制御できるようになって、
社会の底辺から脱出して真っ当な人生に辿りつくための
文化的・社会的装置としての役割のように思われる。

そう考えると、
社会的に許容限界を超えた残酷さを示す危険のある総合格闘技
あるいは悪の華が栄えることが演出されるプロレスに対して、
熱心なボクシングファンが嫌悪感を示すことが多いことが、
理解できるのではないだろうか。

ところが、
恫喝を繰り返す筋者のような父親とか、
買収とか不正採点とかの疑いが付きまとう試合とか
あるいは敬語も使えないような悪ガキのままの態度とか
亀田兄弟の醸し出すイメージは、
どちらかと言えば、
裏社会で仁義無くのし上がるダーティーヒーローのそれだ。
それはそれで需要はあるのかもしれないけれど、
亀田兄弟が実際にどうなのかはともかく、
ボクシングファンの大切にしている価値観を蹂躙するような
そういうイメージであることが、
ボクシングファンから嫌われる大きな要因であるような気がする。