地獄のハイウェイ

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僕を泣か「さ」ないで

実は自分は長いことエアロの"You See Me Crying"の邦題を
「僕を泣かないで」だと思っていた。
本当は「僕を泣かないで」。
何故この話を書いたかと言うと、
最近読んだ西村義樹野矢茂樹言語学の教室」(中公新書)の中の
語彙的使役構文と迂言的使役構文の話(p.106-109)で
「読む-読ませる」が自動詞と他動詞の対応ではなく
「読ませる」が「読む」+助動詞「せる」の組み合わせだから迂言的だ
「泣く」も「泣か-せる」のように迂言的にしか言えないと出ていたこと(p.108)に
ちょっと違和感を覚えたからだ。
「泣く-泣かす」ではアカンのか?
それでネットも含め国語辞書で「泣かす」を調べると普通に
5段活用あるいは下2段活用の動詞として出てくる。
(例えばWeblio辞書 http://www.weblio.jp/content/%E6%B3%A3%E3%81%8B%E3%81%99)
「泣かす」が日本語として変なわけではないようだ。
そういえば桂春団治の「芸のためなら女房も泣かす」という台詞も有名だ。
それでもう少し調べると古文の場合は
「す」が使役の助動詞(4段活用)となっているようだ。
5段活用は古文にはないから古くは「動詞+助動詞」だったのが
5段活用化する過程で一つの動詞となったとでも考えるべきなのだろう。
関西方言は標準語よりも古い形が残っている傾向があるから
「泣かす」「読ます」どころか「歩かす」「驚(おど)かす」も日常的に耳にする。
これらを1個の動詞と見なすか動詞+助動詞「す」と見なすかは
言語学者にとってはもしかすると重要な論点なのかもしれないが、
自分には恣意的な線引きのようにも見える。
「泣く-泣かす」と自他対応とされている「沸く-沸かす」を
活用のような語形変化などの外形的な基準で区別せよと言われても難しい。
方言や通時的変化まで考え出すと細かく論じてどうなるのかなとの疑問もある。
言語学の教室」で他動詞がないとされる「笑う」(p.108)だが
関西方言の「笑かす」という語はどうなんだろうか。
これが迂言的であったから困るわけではないが
語彙的だったら困ると言うような理論というのもロバストでない様な気がする。