地獄のハイウェイ

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自己中心主義の長い腕:トロッコ問題

とある高校教師S‏さんという人の「トロッコ問題」に関するtwitter投稿が話題になっている。
短いので全文引用しよう。
「これを昔、授業でやったら「なぜ助ける必要があるのかわからない。俺は傍観者だから放置して5人が死んでも責任はない。でも切り替えたら俺の責任になる」と言った生徒がいて衝撃を受けた。確かにその通り。「5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい」と。」
https://twitter.com/hellohellock/status/1116264344554049537/photo/1

ロッコ問題は日本ではM.サンデルの紹介で有名になったもので
元々はフィリッパ・フットがオリジナルらしいが、
多数の生命を助けるために少数(元の設定では1名)の命を犠牲にするかどうか、
そういう倫理的なジレンマについての話しだ。
ロッコ問題の解説だと功利主義的に少数の罪なき犠牲を選ぶか、
それとも義務論的に悪を為すことを禁じる規範に従って多数の犠牲を許容するか、
といったような議論が多いわけだが、
高校教師S‏さんの紹介している生徒の反応は非常に興味深いと思う。
「非難を避けるために消極的に振る舞う」というのは
元々のどちらの善(あるいはどちらの悪)を選択すべきかという問いに対して
ちょっとずれている感もあるが(「恥の文化と罪の文化」を思い出す)、
自分が興味深く思ったのは、その点ではない。
興味のポイントは<自己の利益を最大にするように振る舞う>という
どちらかと言えば利己的(selfish)な選択が
社会的背景(犠牲者の遺族)から責められるという観点の導入によって
義務論的な「悪を為すことを避ける」という規範に従うのと、
ほぼ同じ選択をする点である。
アダム・スミスの「神の見えざる手」ではないが
利己的な振る舞いが道徳律に適合的な選択を選ばせてしまうのである。
ドーキンスの「利己的な遺伝子」みたいな進化心理学とか社会生物学とか、
そういう系統の好きな人には喜ばれそうな感じだ。
「なぜ道徳律が人間社会にある」ように見えるのかについて
進化倫理学とかそちらの方面の説明に繋がるようで興味深い。