地獄のハイウェイ

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科学が誤解される現場

垂水雄二『科学はなぜ誤解されるのか』(平凡社新書)を読んだ。
タイトルに掲げられた問題についてはそれほど掘り下げられているわけではなかった。
著者はドーキンスなどの進化論関係の翻訳などで知られる科学ライターなので
第四章「誤解されるダーウィン」と第五章「「利己的な遺伝子」をめぐる誤解」で、
得意の分野で世間に広まっている「誤解」と戦っているのだが
ところどころ首を傾げるような記述がある。

例えば進化論の敵方である個別創造説や自然神学について説明している箇所で、
たぶん筆が滑ったのだろうとは思うのだが、
「一九世紀前半の英国で、ニュートンのような物理学者を含めて、ほとんどの科学者は、この自然神学を信奉し」(p.117)
とあるのだがニュートン(1643~1727)は19世紀には生きてはいないだろう。
また、W.ペイリーの『自然神学』(1802)の影響を述べた後で、
「当時のその影響力は絶大なもので、アダム・セジウィックをはじめ、ダーウィンが学んだケンブリッジ大学の教授陣も、後に盟友となるライエル(地質学)やフッカー(植物学)も個別創造説を信じていた。カール・リンネの分類体系もまた、これに依拠するものであった。」(p.118)
とあるのだが、リンネ(1707~1778)が自然神学や個別創造説を奉じていたにしても
死んだ後に出てきたペイリーの影響下にないのは明らかなのだから、
好意的に解釈しても誤解を生みそうな不適切な表現だとしか言えない。

更に、「利己的な遺伝子」の章の方では生物学の分野における遺伝子の定義について
マット・リドレーの『やわらかな遺伝子』で
「遺伝子の五つの定義が述べられている。」(p.181)
と紹介しているが、リドレーのその本では「「遺伝子」の七つの意味」となっている。
リドレーが「五つ」と言っているのは「遺伝学者」の用法についてであり、
それら「五つ」と異なる意味として進化論における「選択の単位」としての用法と
選択の単位を更に社会生物学進化心理学における「本能の単位」とする用法を合わせて
合計「七つ」の意味があるとしているのだ。
ところが垂水はp.181-187で五つの定義の説明をした後、p.188の1行目で
「そして、最後に「利己的な遺伝子」におけるような、淘汰の単位としての遺伝子がある。」
とだけ書いて、「淘汰の単位としての遺伝子」の話をし始める。
遺伝学的な遺伝子概念と進化論的な遺伝子概念の関係について
事情に詳しくない読者がすんなりと誤解なく理解できるだろうか?

誤解を誘発する表現を多用しているからダメだとまでは言わないが、
新たな誤解を生みだすことに繋がりかねないことに対して
著者はもっと注意深くあるべきではないかと思う。