地獄のハイウェイ

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進化心理学への不信感の理由

 進化心理学と呼ばれるものが何となく胡散臭く思えて仕方なくなって10年近くたつのだが、その不信感の理由がようやく自分なりに説明できるようになった。その理由とは進化心理学は正統的な進化論から見て不健全だということだ。

 まず最初にはっきりさせておかなければならないが、「進化心理学」というのは研究分野の名称ではなくて、特定の研究プログラムの名称で、心理学的な事象について進化論(≒進化生物学)に基づいた説明の企てのごく一部でしかない。例えば「意識の進化的起源」に関する研究は、進化心理学とは全く別の研究ジャンルである。

 進化心理学の研究プログラムの綱領の中核は「人間の心は1万年前の更新世の進化的適応環境(Environment of Evolutionary Adaptedness)に適応した心的モジュールの集合体として構成されている」とする仮説である。自分にはこれが健全な進化生物学的な学説との大きな隔たりを感じさせるものなのである。

 自然淘汰(自然選択)を説明の中心に据える通常の進化生物学なら、ある遺伝子集団(種とか個体群とか)の形質が現時点で生存や繁殖に不利で非適応的であれば、その形質の遺伝子プールにおける頻度が減少することを予測する。ある形質に遺伝的基盤があれば、遺伝的浮動のような攪乱はあっても、徐々に遺伝子集団から非適応的な形質が除去されるというのが、自然淘汰の基本中の基本である。現時点の遺伝子集団に多型として非適応的な形質が見られるとすれば、それは過去に適応的な時代があったことの名残か、何か適応的な面があって(超優性による平衡とか頻度依存選択とか)があって集団中に維持されているというのが、ごくごく普通の進化生物学的な説明になる。超優性なり頻度依存選択なりのような平衡を維持するようなメカニズムが働かなければ、その非適応的な形質は時間の経過とともに頻度を減らして除去されていく。

 これに対して異論を唱えるのは断続平衡説(S.J.グールド)のような立場だ。ある種の発生的な制約から、特定の形質が遺伝子集団から除去できないことはもちろんあり得る。しかしそういう例では、発生的な制約の故にその形質を取り除けないのだから、それから逸脱した個体の発生(誕生)は期待できず、その形質に関して多型になることは期待できない。

 適応の舞台は更新世であるとする進化心理学という研究プログラムでは、ある種の心的機能を持ったモジュールを持つ個体は、そうでない個体よりも適応的であったために更新世に集団内に広がり形質として固定したと見ているわけである(適応主義)。もしも現代人にも多型が存在すると、ある心的モジュールが現代では非適応的な形質となってしまった場合に、その心的モジュールを持った個体には淘汰圧が掛かり、徐々に除去されて行くことになってしまう。現代人と脳の構造が大きくは異ならないであろう更新世の先祖達に心的モジュールの多型があったとしないと適応的な進化はできないのだから、発生的な制約に訴えて現代人にその形質を持たない変異が存在しないと推測することは理論上できないだろう。そうなると農耕文明になってからの歴史的な時間の差によって、人類集団(≒民族集団)ごとにその心的モジュールを欠いた個体の頻度が異なると期待しなければなるまい(進化医学に見られる糖尿病の頻度の人種差の説明と似たようなもの)。しかしこれではヒューマン・ユニバーサルとしての現生人類という種の心的性質を適応主義に則って説明しようという進化心理学の研究プログラムは破綻してしまう。進化生物学に見て健全な説明体系を持つためには、研究プログラムの中心テーゼである「人間の心は1万年前の更新世の進化的適応環境に適応した心的モジュールの集合体として構成されている」という部分を大きく改定して「人間の心は環境に適応した心的モジュールの集合体として構成されているが、その非適応的な部分は1万年前の更新世の進化的適応環境に適応した心的モジュールが痕跡的に残ったものである」というようなものに替えなければなるまい。しかしそうなってしまうと進化心理学とは言えないのかもしれない。もしそうせずに進化心理学の研究プログラムを守ろうとするなら、それは進化生物学的な基準から見て不健全なものであると言わざるを得ない。

 蛇足ではあるが、進化生物学を受容していない人の方が進化生物学を受け入れている人よりも、進化心理学に由来する主張を受け入れている傾向があるとする調査もある。

Ward, A., Wallaert, M., & Schwartz, B. (2011). Who likes evolution? Dissociation of human evolution versus evolutionary psychology. Journal of Social, Evolutionary, and Cultural Psychology, 5(2), 122-130. http://dx.doi.org/10.1037/h0099271