今年のノーベル化学賞はGFP(緑色蛍光タンパク質)関連だったが、
受賞者に日本国籍を持つGFPの発見者である下村脩(以下、敬称略)が
含まれていたこともあって世間的な注目が集まったようだ。
GFPはタンパク質だけで蛍光を発し補酵素等を必要としないため、
それ自体でも大変に面白いタンパク質だとは思うし、
そういう面白いタンパク質の研究は個人的には大好きだが、
応用なしにはノーベル賞級の生物学的重要性はないのじゃないかと思う。
同時受賞者のM.チャルフィーらがGFPを標的タンパク質と繋げて、
標的タンパク質の細胞内局在のレポーターにする技術を開発し、
細胞生物学での幅広い応用されているからこそ
科学的重要性が評価されてノーベル賞の対象となったのだと思う。
下村はともかくチャルフィーらの仕事は純粋な「サイエンス」というよりも
科学研究に役立つ(ただし産業には役立たないかも知れない)「技術」の開発
と言えるのではないか。
今回のGFPに限らず過去のノーベル化学賞では
PCRであるとか結晶解析の直接法であるとか
そういう研究用の技術の開発での受賞が少なくない。
化学賞だけではない、物理学賞だって
霧箱とか泡箱とかイオン・トラップとか、
あるいは産業的な応用も目覚しいが電子顕微鏡とかの
何かがどうなっているかを明らかにするのではなく
何かをできるようにすることでの受賞も少なくない。
それらは「知る」ことではなく
知ることが「できるようにする」ことで
科学に貢献したと評価されているわけだが、
「できるようにする」ことは科学の中になければ
普通は「技術」とか「発明」と呼ばれるものではないだろうか?
もちろん技術/発明の中には科学への応用のないもの多いし、
理論物理学のように技術と関係の薄い分野もあるから
当然のこと科学と技術を分けて論じる人も多い。
しかしながら、
近代科学の祖とも言えるガリレオが
天体観測のために望遠鏡開発に携わった歴史が示すように
科学、少なくとも実験科学はその中に技術開発の要素を含んでいて、
科学と技術は連続的に繋がっているものと考えた方が良いと思う。
科学と技術の区別をことさら言い立てて、
科学を尊いものとする一方で技術を貶めるよりも
科学と技術の血の繋がりの証として
「科学の中の技術」を讃えたいと思う。