先日、感想を書いた川崎謙「神と自然の科学史」もそうだが、キリスト教の“God”を「神」と訳すのは適切でないという話題がある。これに関しては、19世紀中国に来ていた宣教師の間で「上帝」という訳語候補もあり、「神」と「上帝」の間の用語論争があったということもあってか、キリスト教関係者などが強調しているのもよく見掛ける。
それで逆方向に日本の「神」(より正確に言うなら漢字のそれではなく「カミ」であろう)をgod”と訳すのは不適切なのだという議論も見掛ける。英語と日本語の単語がぴったり一対一に対応しないはその通りだと思うし、キリスト教の概念を非キリスト教文化圏において翻訳するのが困難というのも理解できる。
しかしながら前者の言語的不一致の問題と後者の文化的相違を混同して、日本語で思考するとキリスト教の“God”が理解できないとか、日本語による思考の枠組では西欧的自然観の枠組を理解できないとか、そういう短絡的な議論に対しては懐疑的になった方が良い。
南蛮文化が渡来した頃を舞台にした時代劇を見ている人にはお馴染みだと思うが、当時のキリスト教伝道者はキリスト教の神の呼称として「デウス」を使っていた。適切な日本語訳がなかったのでラテン語の“Deus”をそのまま使っていたという訳だ。中世のヨーロッパの共通語はラテン語であったし、近世というか宗教改革に至るまで、西欧世界のキリスト教はラテン語聖書を用いていたので、神は“Deus”という語で表わされてきたのだ。
しかしこのラテン語“Deus”は、演劇の「デウス・エクス・マキナ」(“Deus ex machina”)の“Deus”と同じである。ギリシア悲劇などでアポロンとかが、どんでん返し的に現れて一件落着になる、そういう手法を指して「デウス・エクス・マキナ」というその「デウス」である。
ラテン語は元々はローマ帝国の公用語で、ローマ帝国は元々はユピテル(ジュピター)とかマルスとか多くの神がいる多神教だったので、ヘブライ人の一神教の神ヤーヴェを指す言葉として、ラテン語“Deus”を使ったというわけなのだろうが、これは日本人が「神」を使ったのと似たような構図ではないか。ラテン語の話者がキリスト教の神を理解できないというなら、アウグスティヌスの理解は大丈夫だったのかという議論になってしまう。
翻訳というのは難しいし、翻訳語によるバイアスも否定しがたいし、それまでの文化の影響を逃れることも難しいが、日本語による思考の枠組では、キリスト教とか西欧的自然観を理解できないとかそういう話は、信じない方が良いと思う。