地獄のハイウェイ

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川崎謙「神と自然の科学史」感想

 学術書ではないので、カルチャーセンターの講演くらいに思えば腹は立たないのであるが、帯の宣伝文句「「自然」と"nature"はどう違うか?比較科学論への招待」、に興味を惹かれて読んでみたものの杜撰な論証にがっかりした。

 本書では、思考や世界観などは母語に影響されているとするサピア=ウォーフの仮説に基づいて西欧自然科学の"nature"と日本の「自然」の違いを論じ、その違いが理科教育で意識されていないため混乱がもたらされているとしている。
 そういう意見を述べるのは自由だが、科学史とか思想史から都合の良いところだけ恣意的に引用してきて単純な歴史像を捏造するのは偽史とかトンデモの類と大差ないものだ。

 西欧の思想がギリシア哲学とキリスト教の双方から影響を受けているのは間違いないが、数学的な自然科学がそこから自動的に生じるわけではない。現象の背後を貫く真の実在は数学的であるという考え方がガリレオの時代に歴史的に成立したというのなら、それは中世ヨーロッパでは誰もが持っていた考えではないということだ。本書で無視されているアリストテレスによる天上と月下の分割と月下の現象の学術的究明には数学を適用しないという思考の枠組みは、中世の西欧の思想界を席巻していたのではないか。また数学的でない「生命原理」による思考法は生気論が衰退する19世紀までは近代の西欧でも広く見られたのではないか。そもそも西欧諸語による自然観が数学的記述によるものに限られるとするなら、西欧における人文的文化と自然科学とのギクシャクした関係はどうなる?人文的文化は西欧言語を母語としていないとでも言うのであろうか?

 著者は日本人の自然観について仏典に由来する「諸法実相」と形容して、それから生まれる「無法則的な列挙的自然記述」(著者の言い方ではない)が日本人の自然観だといっているようだ。
 それなのに明治時代の科学受容では、朱子学の「格物致知」に引きずられていると主張しているので奇妙だ。朱子学理気二元論で形而上の「理」と形而下の「気」の双方を説き、著者の言う「イデア-nature」のロゴス的枠組みに近いところがある。江戸時代の日本人は朱子学理気二元論的自然観を「諸法実相」的枠組みで無視していたとでも言うのであろうか?
 それだと西洋科学の受容以前に「諸法実相の枠組みの内側にさらに奇妙な牢獄」を作って文化的に混乱していたということになりかねないと思うが、そういうことは完全に考察の対象外になっていて手抜きが目立つ。

こういういい加減な書籍を真に受ける人が少ないことを希望したい。