地獄のハイウェイ

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滅びゆく科学哲学:伊勢田哲治『科学哲学の源流をたどる』

 伊勢田哲治の『科学哲学の源流をたどる―研究伝統の百年史』を読んだ。出版元(ミネルヴァ書房)のPR誌に書いた軽い読み物をまとめたものだそうだ。同著者の『疑似科学と科学の哲学』が面白かったので期待して読んだが期待外れだった。学術書でもなければ教科書でもないものを本気で批判しても仕方ないが、現在の科学哲学が科学者から相手にされなくなっているのがよく分かった。

 まずこの本を読んでも『疑似科学と科学の哲学』に紹介されているような「線引き問題」が一時期の科学哲学の主要なテーマだったというのが全く理解できない。「線引き問題」(demarcation problem、境界設定問題とも)は、ある知識もしくは知的探求が「科学」なのかどうかを判断するような話題だがそれに伴って科学的方法とは何かとか科学的説明とはどんなものかが議論されるので広い意味での認識論とか知識論とかの範疇に入る問題だと思われるのだが、伊勢田は何と「科学的実在論論争」を基準としてウィーン学団以前の伝統を概観しようとする。
 科学的実在論論争は電子や光子だとかの科学理論の対象が真の「実在」なのか概念的「構成物」とか「道具」かどうかを巡るどちらかといえば科学理論への存在論的コミットメントに関する論争であろう。正直言えば、普通の実験系の科学者にとっては、電子や光子は実在するものであり逆格子は概念的道具立てであり正孔(ホール)はその中間だろう。何を存在者として扱うかは用いる理論によって異なるが、ある理論を用いる限りはその理論の対象は存在するものとして議論することになる。(伊勢田も『疑似科学・・』の方で紹介しているA.ファインの自然な存在論的態度)科学者にとって哲学的な科学的実在論論争はどうでもいいことなのだ。
 一方、本書1章で紹介されている帰納法といった科学的方法論の正統性を巡る議論は現在では下火になっているのかもしれないが大いに関心のあることだ。ウィ―ン学団よりも後のポパー反証主義とかクーンのパラダイム論とかに科学者がそれなりに関心を持ちそれなりに言及するのはそういう訳だ。

 20世紀初頭の物理学革命において科学者同士が相対性理論量子力学を巡って大いに哲学的論争を繰り広げたのは有名である。ウィーン学団がそのマニフェスト「科学的世界把握」の末尾において指導的代表者にアインシュタインラッセル、ヴィトゲンシュタインの3名を挙げているが、なぜアインシュタインが入っているかその意味合いを良く考えた方が良い。物理学革命が新カント派的な「認識批判」の射程を超えていたことから(カッシーラー以外は対応できなかったとも言われている)哲学上の革新運動においても重要視されていたことの表れであろう(プランクの弟子でもあるシュリックは相対性理論の哲学的解説などもしている)ところが伊勢田は最終章においてウィーン学団への物理学革命の影響はスルーしていて、断言こそしていないが原子論の実験的確立(ペランの1908年の研究)によって科学者達が哲学的論争に興味を失っていたかのように書いている。これは歴史記述としても全くダメではないだろうか。

 日本を代表する科学哲学者の一人と目されている人物のこの体たらくは科学哲学が科学者との共通の関心を失って自分達だけの課題のみ議論するようになってスコラ哲学的な末期症状を示していることの現れなのではないだろうか。