地獄のハイウェイ

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天動説の発展史における自然学と天文学の葛藤

 プトレマイオスの『アルマゲスト』以降の天動説の発展史は興味深い(主として参考にしたのはコペルニクス『天球回天論』(高橋憲一訳)の訳者解説)。

 まずプトレマイオス自身が、『アルマゲスト』では導円半径を一定にした計算モデルだったものを、『惑星仮説』では惑星の導円半径を与えることで、全ての惑星を矛盾なく単一の実在的モデルに組み込むことに成功している。
 その後のバッターニーら中世イスラム天文学者の精力的な観測によって、様々な天体パラメーターの精度が向上している。これは理論とデータの一致を精確に評価する上で重要な進展だ。

 一方でアルハーゼン(イブン・アル・ハイサム)が、『プトレマイオスへの疑問』を著し、プトレマイオスの天体モデルが「一様円運動」の原理に合致していないと批判している。

 アルハーゼンに強く批判されたものの一つが、惑星運行の観測データと一致させるためにプトレマイオスが導入した、エカント(角速度一定になる中心)である。
 エカントの採用は観測データとの一致という成功をもたらしたが、惑星運動を一様円運動の合成から説明するという要請からの逸脱として、その後の天文学史の中で問題視されつづけたようだ。
 周転円説の改良に取り組んだマラーガ学派では、ナスィール・アッ・ディーン・アッ・トゥースィーが、エカントを解消するための「トゥースィーの対円」と呼ばれる技法を開発している。これは理論の複雑化をもたらした上に予測精度の向上には寄与していないが、ヨーロッパにも伝わったようでコペルニクスにも影響を与えている可能性があるそうだ。

 また、天動説にはプトレマイオスによって集大成された周転円説以外に、エウドクソスに始まる同心天球説(アリストテレスはこちら)があるが、アルハーゼンの批判に刺激され12世紀スペインでは同心天球説の復権も起きた。
 アリストテレス派のアヴェロエス(イブン・ルシュド)などは、周転円説を「実在的には無意味だが、実在しないものを計算するには好都合である」と否定的に評価し、アリストテレス的自然学の基礎に立つ天文学の樹立の必要性を説き、それに応えてアルペトラギウス(アル・ビトルージー)は、天球の極に運動を導入することで同心天球説の改良を試みている。
 ただ予測精度でプトレマイオスの理論を上回ることができず、また同心天球説では惑星の見掛けの大きさの変化が説明できないため、天文学者の支持を得ることはできなかったようだ。
 この流れはルネサンス期にパドヴァ大学周辺などで、ジローラモ・フラカストロやジョヴァンニ・バティスタ・アミーコといったアリストテレス自然学を優先して同心天球説の改良に取り組んだ人々を生んでいる。因みにアミーコの著作の題名は彼らの目標をずばり表現した『ペリパトス派の諸原理に従い、離心円も周転円も使わない天体運動論』(”De motibus corporum coelestium iuxta principia peripatetica sine eccentricis set epicyclis”、1536年/改訂版1537年)というものである。

 周転円説と同心天球説の間の対立は、コペルニクスが『天球回転論』(”De revolutionibus orbium coelestium”、1543年)でも『コメンタリオルス』でも触れているが、観測データとの一致をとるか理論的正当性(一様円運動)をとるかの対立なのだ。
 そしてコペルニクスは一様円運動の原理を維持する方向で、つまり自然学的な要請を満足しながら観測データとの一致を生み出す画期的なモデルとして地動説を提案したという面が少なくないようだ。

「なぜなら,同心的諸円を頼りにする人々は,たとえそれらからいくつかのさまざまな運動が合成され得ることを論証したとしても,天象と確かに対応するような確実なことを何1つ彼らはそこから打ち立てることができなかったからです.しかるに,離心的諸円を考案した人々も,たとえ見かけの運動を大部分それらによって数値的に一致するように解決したと思われるにせよ,運動の一様性に関する第1の諸原理に矛盾するように思われる多くの事柄を彼らはそうこうするうちに容認してしまいました.」
(「『天球回転論』教皇パウロ3世宛ての序文」高橋憲一訳)

 初等的なポピュラー科学史解説本だとプトレマイオスの天動説とアリストテレス的自然学との間に何の緊張関係もなかったかのように記述されているが、決してそんなことはないことがわかる。
 あげくに天動説が科学の発達を阻害したかのような記述(例えば小山慶太『科学史年表』中公新書見掛けることもあるが、そういうのはプトレマイオス以降の天動説の発展史と、コペルニクスの業績の間にある密接な関連性を無視した誤謬と言えるだろう。