数日前に池内了が読売新聞の書評欄で、松尾貴史の「なぜ宇宙人は地球に来ない?」を取り上げ、
「(前略)健全な懐疑精神が素晴らしい。疑うことがダサイとされ、思考放棄とそれに付け込む疑似科学が蔓延(まんえん)する現代において、一服の清涼剤となっている。」
というようなことを書いていた。
疑わないから疑似科学を受け入れるという人もいるにはいるだろうが、疑いを持った結果として疑似科学に引き寄せられることも多いように思う。たとえば正統的な西洋医学を拒否し代替療法に走る人々は、西洋医学を疑った結果としてそうしているのではないだろうか?また陰謀論に嵌る人々も政府の公式見解に対して懐疑的なのではないだろうか。だから単純に疑う心があれば良いというものではないように思われる。
それでは疑いを向ける対象とか方向が拙いのだろうか。正統とされているものとか学会の主流派を疑うと疑似科学側に行ってしまうが、非正統派とか少数派の方に懐疑的であれば疑似科学に引っ掛からないのか?
それではルイセンコ事件のようなケースではどうだろうか。日本ならともかく当時のソ連にいれば主流派の方が疑似科学だ。それに(疑似科学ではないが)デタラメな公式見解の代名詞が「大本営発表」だし、薬害事件などで厚生省(現・厚生労働省)は大本営の末裔のようなことをしているから、日本人が厚生労働省の発表に懐疑的になりがちなのは仕方がない面もあると思う。少なくとも主流/反主流で懐疑の対象を切り分けるのは十分でない。
では社会の趨勢に関係なく「常識」を頼りに判断すれば良いのだろうか?いや、そうではないだろう。常識に反するとか理解できないとかそういうのが、「相対性理論は間違っている」系の疑似科学を生み出しているではないか。
そもそも、Japan Skepticsの会員である大槻義彦が陥っている「月の石捏造説」はどうなのだ?
懐疑精神が疑似科学の防波堤になるという考えには懐疑的に接した方が良いだろう。