地獄のハイウェイ

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「進化心理学の擁護-批判の論駁を通じて」を批判する

 今日たまたま中尾央さんという総研大助教の人の「進化心理学の擁護-批判の論駁を通じて」(『科学哲学』46(1): 1-16)を読んだ。哲学者が科学研究上の研究プログラムを擁護しているのを興味深く思ったが、残念ながら非常に問題が多いと感じたのでメモ的に記す。

 中尾(以下敬称略)によれば進化心理学というのは、人間の心理的特徴などを進化的見地から検討する研究プログラム全般を指すのではなく、「(人間の)心は進化的適応環境(180万年~1万年前の更新世)に進化的に適応した心的モジュールの集合体として構成されている」とする仮説に基づいて人間心理について研究を行なうアプローチを指すのだそうだ。
 このような規定では、両眼視差による立体視のような知覚心理学で良く知られた適応形質は進化心理学の研究対象には含まれないことになる。進化生物学的バックグラウンドを持った他の多くの心理学的な研究、例えばピアジェ発達心理学ギブソンの生態心理学などは進化心理学の範疇にはない。また進化心理学が理論的概念(互恵的利他行動など)の多くを負っている行動生態学もその研究の多くは心のモジュール集合体仮説に依拠しているわけではないから研究プログラムとしての進化心理学とは基本的には別のものである。 あえて言えば人間の心理を行動生態学的に解明しようとする種々のアプローチの中で、心のモジュール集合体仮説を採用し適応環境を更新世に限定したものを進化心理学と呼んでいると言うことになる。

 まず問題になるのは心のモジュール集合体仮説の有効性である。(中尾の述べるところの進化心理学への第2の批判に相当する)中尾が実際の研究の中で提唱されたものとしてモジュールの例に挙げているものとして裏切り者検出モジュールや配偶者選びに関するモジュールなどがある。裏切り者検出モジュールについては霊長目が研究対象の中心なのでまだ良いとしても、配偶者選びのモジュールを進化心理学の対象にすることは非常に問題である。何故なら、このモジュールを考えるための根拠として引用される行動生物学的な配偶者選択に関する研究成果の多くは、性選択が良く知られているような動物、人類とは系統的に大きく離れた鳥類であるとか、あるい更に系統的にかけ離れた昆虫類などで得られたものであり、とてもではないが進化的タイムスケールが更新世に限定されるようなものでない。(こちらは中尾の述べるところの進化心理学への第1の批判に通じる)そもそも動物(昆虫も含む)に心があるかと言う原理的問題にも関わるが、動物に配偶者選びの(認知的?)モジュールがあると仮定してよいのだろうか。
 もし認知的・神経情報処理システムとしてもモジュール性を認めるとしても、それを他の心的能力のモジュールと同じ水準の心の構成要素として考えるのなら昆虫にも人間の心と相同的なモジュールがあるということになってしまい、「昆虫にも部分的な心がある」という極端に強い主張を含意することになるだろう。そのような動物の心の存在に関する極端に強い主張をすることは、通常の行動生物学的研究プログラムを阻害しかねない。むしろ心の存在を仮定せずに行動そのものの適応的意義や系統発生を研究するというのが健全な行動生物学的な研究プログラムだろう。
 進化心理学とは逆に、心の存在を仮定せずに行動生物学的を人間行動に応用して、適応的な観点から進化的に研究する人間行動生態学の方が研究プログラムとしてずっと有効ではないだろうか。率直に言って心のモジュール集合体仮説は、動物の心の存在についてのインフレーションを引き起こすものであり、(中尾は引用上ではあるが心的モジュール集合体としてラットの心について言及している)方法論的観点から見て全く支持できない。

 また中尾は心のモジュール集合体仮説の擁護のために形質のモザイク性を挙げ、機能的に独立している形質は進化しやすい(進化可能性が高い)ので経験的にもモジュール集合体仮説を支持できると主張しているが、これもまた深刻な研究プログラム上の問題をもたらす。進化心理学では更新世以降は適応的な形質の進化はそれほど多くないと仮定しているが、中尾が主張するように独立性の高いモジュールが進化しやすいのなら、更新世以降の生活環境の激しい変化に応じて進化した形質を研究の仮定から基本的に除外する必要はないだろう。実際、中尾も機能的に独立しているために進化しやすい形質の例として肌の色を挙げているが、良く知られているようにインドのアーリア人が黒い肌を獲得したのは彼らがインドに侵入したとされる高々紀元前2000年前からである。肌の色とか鼻の高さとか形質人類学で良く知られている人種差の多くは更新世まで遡る必要があるのだろうか。あるいは進化医学であれこれ言われる糖尿病になりやすさの人種差とかもそうだ。独立したモジュールの進化可能性が高いのであれば人種間に見られる形質的差異のような人種間の心理的差異についても研究から除外すべきではないはずだが、そのレベルになると個人の生育過程における文化的な環境への適応との分離が難しくなり、双子研究のような行動遺伝学が進化心理学に不可欠になってくる。
 これは進化心理学の自律的研究プログラムとしての有効性に疑問を持たせるものである。進化心理学更新世以降のモジュールの進化を研究対象にしないのは、研究の自律性を護るための退行的禁欲ではないかと疑わさせられる。進化心理学には研究プログラムとしての健全性には疑問がある。

 進化心理学は研究プログラムとして疑問の多いものであり、中尾の擁護は不十分なものと批判せざるを得ない。人間の心理的特徴などを進化的見地から検討する研究の豊穣さは疑わないものの、その特殊形態としての進化心理学は、科学研究のプログラムとして、あまり期待できないというのが正直な判断である。

2013/09/22追記
 科学上の研究プログラム間の競争は、比較的似た研究プログラムの間で生じることが少なくない。例えば量子化学における原子化結合法と分子軌道法との間の競合とか、観測天文学における屈折望遠鏡反射望遠鏡の間の競争とかがそうである。こういったジャンル内での研究プログラムの競合は、科学者にとっては予算配分等も絡むために深刻なものと感じられがちだが同一ジャンル内での争いであるため、科学史家はともかく哲学者にはあまり注目されないようだ。

 これまでの進化心理学への批判というのはどちらかと言えば、人間心理への進化論的アプローチに反対する立場からものが多いようだ。しかし自分の進化心理学への批判は、人間行動生態学進化心理学の優劣に関する人間行動生態学を支持する立場からのものと見なせるだろう。しかし中尾の進化心理学擁護は、なぜ人間行動生態学ではなく進化心理学を選ぶべきかについては、何も語っていない。哲学的には研究プログラムとして、それが「可能だ」とだけ言えば良いのかも知れない。それだったら歴史上廃れて消えていった研究プログラムのほとんどが、哲学的には「可能な」ものとして擁護できるであろう。そんな哲学的な擁護は、科学研究にコミットしようとしているものにとっては科学的には「ダメ」なプログラムを擁護することでしかない。

(更に加筆)
結局、今回の件に関して言えば、却ってその進化心理学の科学的不健全さが示されたと考えている。