地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

論文は通過点に過ぎないのだから

昨日、NHKの「クローズアップ現代」の「揺らぐ科学の信頼」を見た。
東大の多比良和成・元教授(2006年12月27日付で懲戒解雇)と
川崎広明・元助手(同じく2006年12月27日付で懲戒解雇)の論文捏造事件について報じていた。
捏造疑惑が発覚してから懲戒解雇処分までの期間に
多比良・元教授や川崎・元助手にインタビューしたりしていて
一過性のバッシングになっていない点では報道として評価できるものの、
相変わらず、ブロード&ウェイド「背信の科学者たち」以前の
科学の客観性神話に基づく論調で、正直言ってがっかりした

「近年になって捏造が増えたのは競争的研究環境のせいだ」という趣旨を
ゲストの北澤宏一・科学技術振興機構理事が言っていたが
何と牧歌的な科学観ではないだろうか。

例えば、メンデルのケースはどうか。
メンデルのエンドウに関する有名な実験については、
ほとんどのデータが確率的にありえないほど理論と一致しているため
捏造に関してほぼクロだと言われているが、
メンデルにとって修道士としての出世や実績にプラスにならない科学研究で、
厳しい競争があったといえるのだろうか?
それどころか、メンデルの仕事は注目を集めることもなく
1900年のいわゆる再発見まで35年間もほぼ忘れられていたが
修道士としてのキャリアに問題が生じたわけではない。
競争相手がいなかろうが出世に関係がなかろうが
自分の成果が認められれたいと思っている場合には
データをデッチあげてしまうことも普通に起こり得ることだと考えるべきだ。

クローズアップ現代」の説明では今回の東大の事件では、
他の研究者から実験が再現できないことにクレームがついたのが切っ掛けらしいが
そう言えばベル研シェーン事件でも追試の不成功が捏造発覚の導火線になっていた。
(面白いことに多比良・元教授の言い訳はバトログの弁明に似ていた)
まあ、今回のケースでは新手法の開発が成果とされているのに
再現性が極めて低いのであれば技術としては全くダメなわけで
仮にインチキでなかったとしても手法としての価値はほとんどないのではないか。

これまでの捏造事件では
捏造が最終的に排除されるとしても、それには時間が掛かっている。
だから論文を発表しただけで成果とみなすことがどれほど危ういことか判るはずだ。
捏造だけでなく間違いに関する科学史を調べれば、
後から間違いであったことが判明した事例には事欠かない。
例えば少年向けの科学者の伝記の定番である
野口英世(実は梅毒スピロヘータの純粋培養は捏造の疑いが持たれているが)が
エクアドルで開発した黄熱病ワクチンはエクアドルで大成功したが
(実は症状の似たワイル氏病のものだったらしい)
実はアフリカの(つまり本当の)黄熱病には効かないことがわかった例がある。

科学関係の成果も長いスパンで評価すべきであって
Natureに載っただけで高い評価を与えることはやめるべきだろう。
生命科学関係だと論文発表のプレスリリースで
「有望な治療法の開発に繋がる可能性がある」とかの謳い文句が踊るが
新薬の開発が普通10年以上掛かるとされていることを考えればほとんど眉唾だ。
(そういえば先日ファイザーの「トルセトラピブ」の開発中止のニュースがあった)
科学が謳い文句にしている「再現性」とか「普遍性」といったものは
実は論文が発表された時点では保証されておらず
その論文に基づいた研究が積み重なって、
初めて評価できるのだと考えたらどうだろうか。