地獄のハイウェイ

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科学は道徳に干渉してはいけないのか

疑似科学批判関係でmzsmsさんという方が
「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」という考えに固執すべきでない
という考察を述べておられる。
http://d.hatena.ne.jp/mzsms/20090418/1240045713
自分なりに科学と価値の関係を考えてみた。

科学的発見の<科学的>価値について考えてみよう。
どうして独立な発見・発明者の中で
最初に発表したものだけが科学的な名誉の対象になり
2番手以降のものには名誉が与えられないのであろうか?
これは科学発見については科学者の社会の中で
最初の発表者に先取権を与える先発表主義が慣例になっているからであり
特許の先発明主義のような可能なオルタナティブである先発見主義が、
科学者の社会で受容されていないからに過ぎない。
(因みに知財の世界では先願主義がスタンダード)
これは科学的な価値判断に関する社会的な事実である。
国際的な評価を受けなければ価値がないから
日本語で国内発表せずに国際的な雑誌に論文を載せるべきだというのはどうだ?
査読が極めて緩い国内の紀要に発表した論文は業績としての価値がなく
インパクトファクターの高い雑誌に掲載されなければ価値がないというのは
科学者の社会における価値についての事実だ。
結局のところ科学的な価値というのは、
科学者社会の社会的構成物であり、すなわち社会的な事実である。

道徳的な価値判断についても、先発表主義同様の社会的な構成物と考えれば、
道徳的な判断について幅広い間主観的な合意が存在することに不思議はない。
道徳的な判断は主観的なものではなく、
間主観的な妥当性が問える社会的構成物つまり社会的な事実であると見なせる。
道徳的な価値も科学的な価値も
それが流通する社会もしくは部分社会における社会的構成物なのだ。

科学から道徳的価値判断に働き掛けてはいけないというよりも、
道徳のような社会全体で流通する価値判断を
社会的マイノリティーである科学者社会の認識に従属させようとすることが
社会的に不適切であるということなのだと思う。
一方で科学の世界から一般社会に関して働き掛けることがNGだと言うのなら
政策に注文をつけることや社会的受容のための働き掛けもNGだということになる。
国が科学予算を大幅に削減することに抗議してはならないなんて
ほとんどの科学者は受け容れないだろう。
だから、科学的な事実認識に基づいて
道徳的な価値判断に働き掛けても構わないと思う。