地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

最初から「信頼の構造」はあったのだろうか?

影浦峡『信頼の条件-原発事故をめぐることば』を読んだ。
福島の原発事故後の科学者などの不適切な発言を巡って書かれたもの。
探求者としての「科学者」と権威主義的「専門家」の区別とか
それなりに興味深い視点はあるものの
自分には「きれいごと」過ぎて読むのがちょっと苦痛だった。

自分は高木仁三郎の『市民科学者として生きる』とかを読んだりして、
福島の事故の前から脱原発派のシンパだったので
推進派の専門家が原発建設差し止め訴訟などで意図的に
「事実的に妥当でない」主張を
「社会的に妥当でない」文脈でするのは知っていたので
福島原発事故後に多くの原子力専門家が
そういった発言をしても「やっぱりな」と思っただけだった。

それに科学者の世界というか業界が、
ある種のギルド的閉鎖性を持っていて
(「論文を書いたことのない奴は口を出すな」式の排他性)
専門的知識のない「普通の人」に対して高圧的な傾向があると感じてもいるし、
特に国立の大学人は「公務員」の官尊民卑的な文化に染まっている方が普通だから、
とかく上から目線なことも残念ながら「そういうもんだ」と思っている。

そもそもアカデミズムは政治や経済界の利害と密接な関係があって、
そちら側に引き寄せられがちで市民に寄り添ったものでないだろう。
そうでなければ高木仁三郎が、
わざわざ「市民の科学」なんて標榜する必要なんかなかっただろう。

残念だけれど影浦が指摘しているような
「信頼の構造」の崩壊と言うようなものは
その「信頼の構造」が社会的虚構だったと
明らかになっただけのような気がする。