一昨日、感想を書いた『世界を騙しつづける科学者たち』を読んで思ったのだが、
この本で槍玉に挙げられているような科学を捻じ曲げる一部の科学者が
環境保護主義的な規制に反対する心情の根っこには市場原理主義もあるが同時に、
「環境問題はテクノロジーの進歩で克服できる」とする技術的な楽観主義があるようだ。
(そういう考え方の人達はコルヌコピアン(cornucopian)と呼ばれるとのこと)
それでちょっと思ったのだが、
「科学技術の進歩が現代社会の問題の多くを解決する」というような考え方は
市場原理主義と結びつかない形なら多くの科学者の間にも見られるように思う。
更に言うなら大多数の科学者の間では
「今は科学の手がまだ届かない問題もやがて解決されるようになる」と
科学が限りなく進歩するものだというような進歩主義も共有されている気がする。
全ての問題が科学技術の進歩で解決できると考えている科学者はもちろん少数派だろう。
だけど科学の発達で宗教の役割は終わったとか心の謎は科学で解明できるとか
そういう科学万歳的な景気の良い話が好きな科学者は
そこいらにありふれているように思われる。
一方で科学の成長は終わったとか科学の成長には限界があるだとか
そういう夢のない話が好きなひねくれた科学者なんて極少数派だろう。
多くの科学者が抱いているような科学の進歩に対する
素朴な期待感それ自体を悪く言う気は全くないが、
世の中にはそのような期待感を共有しない人達も少なくない。
そういう人達に科学の進歩への共感を求めることは難しいと思う。
それどころかそういう人達は科学の権威を否定しがちで
科学者や科学の信奉者へ「科学教」というような揶揄を投げつけたりするのだが、
それは科学万能主義に対するものというよりは
科学の進歩へのイノセントな期待に対してのもののようにも思える。
そういった状況の下では
「科学者は科学の限界をわきまえているから謙虚なのだ」式の物言いは
相手には全く伝わらないような気がする。