帰納法という推論方法がある。
観察された事例を集めて、一般的な規則・法則を導き出す推論で、
これまでは「いつもAはB」だからという観察から、
「すべてのAはB」という結論を導くやり方。
帰納法は正当化できるのかできないのかという議論がある。
(科学哲学の教科書などでは色々紹介されている)
自分も若い頃はあれこれ考えたりもしたのだが、
今ではこのような帰納法一般の正当化を考えることは的外れだと感じている。
例えば、
「これまで事故にあってないから今後も事故には合わない」、
と考えるのは一つの帰納法による推論だろう。
しかし、この推論が間違いであることは明白だ。
哲学者の好きな自然の一様性とかいうと話が大袈裟になりすぎるが、
科学者は物理法則が宇宙のどこででも同一だと前提しているから、
ある種の実験結果を物理法則として一般化するのだ。
しかしそういう法則の存在が否定的に考えられているようなもの、
例えばスポーツ選手などの験担ぎとかジンクスとかの場合だったら、
それを本物の「法則」だと考える科学者はまずいないだろう。
一方で中世社会や現代でも信心深い人達の場合ならば
宗教儀式の効果を「一般化」して「法則」の様に考えるだろう。
ある出来事と別の出来事の間に法則的な関係があることを
帰納法によって結論する上で
それが背景知識と言うか理論的枠組みというか
世界の因果的な秩序に関する期待と一致していることが
我々がそのような帰納法を認めるかどうかにとって決定的なのだ。
要するに帰納法が当てになるかならないかの判断は
世界や自然といった物事の秩序に関する
我々の思考の枠組みに依存するのである。
そのような思考の枠組みについての前提抜きで
帰納法を正当化できるとかできないとか議論しても無駄なのだと思う。