地獄のハイウェイ

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鈴木翔『教室内カースト』感想

 中学や高校での教室内の人間集団の上下関係について、アンケートとインタービューを基に論じた書物。東大での修論を基に加筆修正したものということなので、拙い部分があるのは仕方がないとは思うが、著者はアカデミック・ポジションを目指しているそうなので、やはりダメだと思う点、特にロジックの欠陥はきちんと指摘しておこうと思う。

 著者は第3章や第4章では中高生がスクールカーストを、「グループ間の力関係」と捉えていると報告し、その方向に沿って個人間の上下関係としてではなく、グループ間の力関係を「権力」と分析したりしている。
 ところが、第5章や第6章において、教師がスクールカーストをどう捉えているかを論じる際には、単に「能力の違いだとして解釈している」と述べるだけである。教師が「カースト」あるいは「ヒエラルキー」をグループ間の力関係としてではなく個人間の力関係と見なしていることは些細な違いのようであるが、それまでの著者の分析によれば、教師と生徒の間の認識の根本的齟齬を示しているのだ。
 教師が生徒間の力関係を「コミュニケーション能力」の差によると解釈しているということは、ある生徒が力関係で上位にあることを認識していたとしても、その生徒が「上位グループに属している」から力関係で上位であるのだとは見なしていないことを意味する。教師にとって生徒が「上位グループ」に属していることは、単なる分類、ランキングであって権力の源泉ではない。
 ところが著者の分析では、生徒自体は「上位グループに属している」ということが
権力の源泉であると見なしているのである(それ故に下位グループとの交友関係を切り捨てることが身を守ることになる)だからこそ、そこに所属することが人間関係の上下を決定する身分制、「カースト」と言う言葉が図らずも言い得て妙な部分な訳であるが、教師にはそれが全く見えてないということになる。
 ところが著者はそういう風には論じないで、「また、教師が把握する「スクールカースト」も、生徒側の把握しているそれと大きな差異がないということがわかりました。」(p.272)と書いたりで、それまでの分析を自らドブに捨てる始末。こういう部分は指導教官が論文指導で厳しく指摘しなければならないと思う。
 自分なら教師が生徒間の「能力の差」と見ているものが、そうではなくて生徒がどのグループ所属するかに依存しているものだというのが、分析の主要な結論になるように論文を書き直しさせる。
 そういう結論にすれば、クラスのリーダー格の優等生(?)の一人か二人を虐められている下位グループに混ぜても問題の解決にならず、下手をすれば優等生を虐められっ子に転落させるだけなので、上位カーストの集まるサークルに下位グループを参加させた方が効果的である、というような提言に結びつけることが出来るからである(もちろんこの提言は著者の分析が正しいとして考えたものである)。

 率直に言って、先行研究のサーベイとかデータの解釈とかにも粗があると思うが、論証の進め方に大きな瑕疵があるというのが自分の感想である。