先日、「専門家は無能だと思いたい?」という記事を書いてから、
ちょこちょこと虚偽について考えたりしていたのだが、
専門家が嘘つきであるよりも無能である方が良いと思う人達が
思いのほか沢山いるようだと思った。
専門家を無能と見なしたがるの理由には
普通の人のエリートへのルサンチマンとか
そういうものも考えられるが、
それだと福島原発の事故に際して
少なからぬ科学者達が原発関係者の嘘を
意図的なものではないように解釈したがっていたことの説明は難しい。
科学界の落ちこぼれっぽい扱いを受けている周辺人ならいざ知らず、
他の分野の科学の専門家達が原子力関係者に対して
むしろ上から目線でに同情的な態度を示すのは
ルサンチマンとかそういうのが動機ではないだろう。
それであれこれ考えていたのだが
先日もとりあげたハンロンの剃刀ではないが、
世の中の物事の解釈に出来る限り悪意を帰属したくない、
そういうような考え方があるのかもしれない。
ちょうど性善説と性悪説で言うところの性善説のような立場だと言っても良い。
一方、性悪説は個人は利益のために動くと見なすから
経済学の合理的な経済人という考え方と近い。
だとすれば経済学者とかエコノミストとかそれに近い人は
原発事故に関して関係者の発言に嘘を帰属するのを
躊躇しない傾向にあるのだろうか。
経済学まで足を伸ばしたついでに法律の方面も見たところ
「善意」は事実を知らないこと「悪意」は事実を知っていることという
使い方をされているということを知った。
http://www.houterasu.or.jp/houritsu_yougoshuu/yougo_se/se_16.html
この法律用語の使い方に従うならば、
知っているのに言わないのは専門家の悪意ということだ。