地獄のハイウェイ

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最善の説明への推論としての枚挙帰納法

 科学哲学方面で「最善の説明への推論」(inference to the best explanation、IBE)と呼ばれる推論のやり方がある。与えられたデータや証拠に対して、それを最も上手く説明できる仮説を選ぶといった推論のやり方のことで、1965年のギルバート・ハーマンの論文(Philosophical Review 74, 88-95)によって「最善の説明への推論」という呼称が与えられた。「最善の説明」の善さの基準を何とするかは色々とあるだろうが、基本的な考え方は推測統計学における最尤推定(maximum likelihood estimation)などと似たものである。科学哲学においてIBEは仮説形成とかアブダクション(C.S.パース)の文脈で紹介されることが多くて、教科書の類(例えばオカーシャ『科学哲学』)では帰納法とは別物の推論として扱われている。一方で言葉の創案者であるハーマン自身は、「枚挙帰納法はIBEの特殊ケース」と考えているのだが、残念ながら論証が必ずしも上手く行われているようには思われない。ハーマンは尤度のような統計的推測の道具立てを使っていないが、使えば非常に簡単な枚挙帰納法をIBEと見なすべきことを示せるのではないかと思う。

 枚挙帰納法というのは帰納推論の最も基本的な様式で、「これまで観察されたすべてのAはBである」から「すべてのAはBである」と推論するものだ。帰納法の正当化の問題としてよく知られているように、有限個の実例から一般法則を導くには有限から無限への飛躍が含まれ推論の確実性の保証は困難である。科学哲学者による帰納法の擁護の試みは色々あるが、その中の一つであるカルナップの確証度の理論(「帰納論理学」と称していた)では、証拠から仮説の確証度を与えようと試みたが一般法則に対する確証度がゼロになってしまうため、ゼロでない確証度を与えることができる「次の事例の推測」への確証(事例確証)に逃げ道を見出そうとして、ポパーに「法則の確証ができていない」と強く批判された。しかしIBEを基本的な推論だと見なすならば、次に示すように仮説から観察された事例の起こる確率を考えると違った見通しが得られる。

 もちろんのこと少なくともAがBである経験的な確率(Aに対するBの条件付き確率)を議論することに意味がないと話は進まないが(この仮定は事象に関する背景知識に依存する)、AであるときのBである条件付き確率P(B|A)の値がpであるとすると、N個のAの事例がすべてBである確率(すなわち尤度)はpのn乗(p^N)になる。したがってp=1であるならば常にN個のAの事例がすべてBである確率が1にあるのに対して、p=0.999であったとするとN=1,000で0.368、N=10,000では4.52×10^-5となる。仮説H1「P(B|A)=1」と仮説H2「P(B|A)=0.999」を尤度(この場合は説明の確からしさ)で比較すると、H1が最も善いことは明白だが、観察事例の数の増加とともに説明の善さの差が顕著になる。また許容できる尤度をε以上とすると、N個の事例全てでAがBである場合には、その観察事例を満足に説明できる仮説の条件付き確率は、P(B|A)≧ε^(1/N)である。例えば1,000個の観察事例ですべてのAがBであることが万に一つもの偶然(ε=0.0001)までである説明(つまり尤度が0.0001の説明)も許すとしても、AであるときのBの確率が99%以上の仮説でないとその観察事例を説明できない。同じ条件(ε=0.0001)で10,000個の観察事例ならば、それを説明できる仮説に要求される条件付き確率は99.9%以上になる。許容できる最小の尤度が大きくなれば、条件付き確率がより高い仮説でないといけない。

 このようにIBEに従うならば単純な枚挙帰納法において、最も尤もらしい仮説は条件付き確率が1である仮説すなわち一般法則を選ばざるを得ないことが明白である。そして一般法則の尤もらしさは、事例の数の増加にともなって他の競合する仮説よりも圧倒的になることも示される。もちろん観察事例を説明する仮説の集団に対してベイズ推定する場合も考えられるが、競合する複数の仮説の事前確率が一定であればIBEと一致する。逆にIBEや尤度に頼らずに単純な枚挙帰納法で一般法則を推論する議論を組み立てるのは、相当に技巧的な工夫を加えてもちょっと難しいのではないだろうか?そう考えるとハーマンの言うように「枚挙帰納法はIBEの特殊ケース」と見なすべきという結論せざるを得ない。