地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

二項対立を超えて

サイエンス・コミュニケーションといったものに
それなりに期待しているものの、
自分自身は踏み込みきれない違和感のようなものを感じ続けてきたのだが、
ようやくそれが何であったかが見えてきたような気がする。

サイエンス・コミュニケーションの分野では、
一般市民(あるいは大衆)には科学・技術の専門的知識が欠如しているから、
専門家やコミュニケーターがその欠如を埋めてやるという
言わば啓蒙主義的な「欠如モデル」が批判されてきて
一般市民と専門家が対等の立場に立って双方向的に対話するという
「対話モデル」が提唱されるようになってきたそうだ。
どちらのモデルにしても
そこに専門家/一般市民という二分法というか二項対立が前提されている。
自分が感じていた違和感と言うのはその二項対立の図式なのだ。

例えば、ここ数日話題にしているアマチュア科学者はどうだろう?
専門性はそこそこあって、単に啓蒙される存在ではなくむしろ情報を発信する側だ。
欠如モデルにしても対話モデルにしても
マチュア科学者は一体どこに位置づけられるのだろう?

専門家といっても実際にはその専門性は非常に多様である。
その上、ある分野の専門家であっても、
その手段である別の分野に関しであってさえ専門家とは限らない。
ましてや研究上の関係の薄い分野に関しては、
その分野の学部学生にも劣ることも珍しくない。
例えば細胞生物学者が物性物理学を理解していると期待してはならない。
物性物理学者から見て細胞生物学者は「専門家」なのか「一般市民」なのか?

また一般市民というのも多様な存在で
専門知識への関心あるいは利害関係に関しても一様でない。
例えば高校の物理の教師はどうだろう、
あるいは半導体メーカーのエンジニアはどうだ?
大方の細胞生物学者よりも物性物理学に関して詳しい市民を探すのは
そんなに難しくないはずだ。

本来、ある専門分野に関する知識にしろ利害関係にしろ
連続的なスペクトルをなしているはずで、
しかもそれは分野ごとにそれぞれ独立に分布しているのだ。
だからサイエンス・コミュニケーションにおいて
専門家と一般市民という二分法は便宜上のものに過ぎないはずだ。
多次元の連続的な存在を
「専門家」と「一般市民」という二項対立の図式にはめ込んでしまうこと、
それが自分の感じている違和感の大きな部分なのだ。
この二項対立を超えていくことは簡単ではないかもしれないが
自分にとって得心するためには避けて通れないものだと思う。