地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

研究者に教育を期待してはいけない

lanzentraegerさんの「うすっぺら日記」の
2007年4月21日付けのエントリ「学生がその後どうなるのか」
http://d.hatena.ne.jp/lanzentraeger/20070421/p3
が各方面で話題になっているようだ。
lanzentraegerさんの言っておられる
「大学院の研究室というところは、進学してきた学生がその後どうなろうが知ったこっちゃないというところに非常に問題があるように思えます。」
に関しては確かにそういう傾向はあるように思う。

このようなことが起こることについては
以前(大学教官は研究者か教育者か? - 地獄のハイウェイ)にも指摘したが
自分は教官が「研究業績しか評価されないのに教育者として雇われている」ところに
根本的な原因があると思っている。
プロフェッショナルとして自分の評価に結び付かない業務というものは
つまりインセンティブが欠けているわけなので
研究者でなくても熱心になるとは期待してはいけないだろう。
逆に言えば、教育に熱心になってもらうためには
個人の良心に期待するのではなく、
それに対するインセンティブを与えるべきなのであって
そうでなければシステムとして失格だろう。

確かにあちこちでその弊害が指摘されている
(例えばvikingさんの「昨日のエントリのその後:本当に問題なのは何か」
 http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=990 )
「定員充足率と交付金が連動するシステム」が
「進学させるだけさせて、その後どうなろうが知ったこっちゃない」
というような無責任さの蔓延に繋がっているとは思う。
もしかすると文部行政サイドは
定員を充足させるように教育指導に熱心な教官に対する
インセンティブとしての交付金のつもりだったのかもしれないが、
大学経営サイドはともかく心情は個人事業主に近い研究者にとっては
逆効果になったようにしか見えない。
では「配属学生の学位取得率」を「個人研究費」に連動させればいいかというと
それもレベルの低いドクターの濫造にしか繋がらないような気がする。

現状だと、研究者が熱心に院生を指導するのは
研究チームの戦力になって欲しがっているようなケース以外は
あまり期待できないと言うのが実際のところではないか。

昔の学閥のようにある研究室の出身者が
次々と系列の研究室(植民地)を展開していったりするような場合であれば
それによって大ボスが学界(≠学会)で勢力を持つことで
要職(学界会長とか行政の諮問委員とか)についたりといった見返りが期待できるので
ひょっとすると熱心に教育に取り組んでくれるかもしれない。
皮肉な見方だが、
短期間での業績評価ばかりであると、こういう動機も強化されないので
「学生がその後」に関心のない教官が増えてきているのかもしれない。