地獄のハイウェイ

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「ニセ科学批判」について

ニセ科学批判(ニセ[科学批判]ではなく[ニセ科学]批判)について批判することを
ニセ科学批判批判とかいう舌を噛みそうなネーミングで呼ぶらしい。
ここで「批判する」という語は、「ネガティブに評価する」とか
あるいはもっと強く「否定する」「非難する」といった意味合いで使われているようだ。

自分は「批判」あるいは「批判的」という語を
「あるものを評価し妥当性・限界などを明らかにする」という意味で使うのが好きだが
(カントの「純粋理性批判」なんかの「批判」の用法)
世間の流れに逆らえるわけでもないので、
ニセ科学批判」について論じるメタの議論を
ここでは「ニセ科学批判」批評と呼ぶことにしたい。
(「メタ・ニセ科学批判」というのも考えたがやめておく)

ニセ科学批判の哲学(philosophy of criticism against pseudoscience)とか
ニセ科学批判の社会学(sociology of criticism against pseudoscience)とか
そういった感じものの総称と考えて欲しい。
ニセ科学批判者はどういう線引き基準を用いているのか、とか
そのコミュニティはどのように成長するのか、とか
あるいはあるニセ科学批判のレトリックはどのようなものであるか、とか
ニセ科学の蔓延は科学的リテラシーの欠如と判断するのは妥当か、とか
そういう問題群を検討することはニセ科学批判運動自体を観察対象とするが
運動参加者にとって役に立つこともあるかもしれない。

実は自分自身もあるところであるニセ科学に対抗したことがある。
その時、ニセ科学批判側の線引きには相変わらず「ポパー反証主義」が使われ
ニセ科学擁護側が「クーンのパラダイム論」を誤用して対抗するという風景を見て
何とも言えない悲しい気分になったことがある。
ポパー反証主義もクーンのパラダイム論も
科学哲学・科学論にとっては過去の学説であり
学説史的興味はともかくとしてそれを奉じている人はごく少数ではないか。
(余談ながら「日本ポパー哲学研究会」というのはある)
ニセ科学批判批評が欠けているので
時代遅れの哲学論争のようなものが見られるのではないかとも思う。
科学業界の端っこの方で暮らす自分だが、
自分自身の知的誠実性を損なわないためにも
ニセ科学批判のために哲学的不誠実を犯すことはできないと思った。
そういう点からニセ科学批判から一歩引いて
ニセ科学批判」批評の方が自分にできる役割ではないかと思っている。