地獄のハイウェイ

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内井惣七「ダーウィンの思想」感想(2)

内井惣七の「ダーウィンの思想」の第4章は、
ダーウィンの「分岐の原理」の解説である。

分岐の原理についてのダーウィン自身の説明は見通しが悪いため、
内井は分岐の原理の再定式化を試みているが、
それは次のようなものである。

(D1) どんな種も、それがこれまで利用していなかった新しい場所を自然界で獲得すれば、個体数をさらに増すことができる。

(D2) どんな種も、形質を分岐させることによって自然界での新しい場所に適応しやすくなる。

ここで内井の用いている「場所」という用語は、
ダーウィンでは「自然の経済における場所」として使われており、
現代的の生態的地位(ニッチ)に相当するものである。

自分の見たところ内井による分岐の原理の再定式化は、
十分に満足できるものではない。
内井の分岐の原理の(D1)では、
単にある種が新しいニッチに進出したときに、
その新しいニッチに住む個体数分だけ
元の種の個体数が増加するということにしかならない。
しかしそれでは、内井自身が引用しているダーウィンのグレイ宛の手紙の部分、

「一区画の土地に、数種の種や属にまたがる草のタネをまいたときのほうが、二、三種のときに比べて収穫量が多いことが実験的にわかっています。」

と一体どのように関係付けられるかが分からない。
これは一つの種が分岐したわけではないのに利益が得られる話だ。
また「種の起源」の中でも言及されている
ミルヌ・エドワールの「生理的分業」による効率化との関係も判然としない。

これはダーウィンの「種の起源」の中にある

「構造が大いに多様化することによって最大量の生命が可能となるという原則」
(八杉龍一訳1990年版岩波文庫p.153)

というような要素を内井が切り捨てていることが原因だ。
ここでダーウィンの議論は元の種の個体数が増えるということのみならず、
生物群集や生態系における生物体量のようなものを考慮していると見なすべきだ。
内井は分岐の原理を個別の種の進化の観点からのみ分析しようとしているが
生態系の進化という観点から見て種の分岐に作用するものと考えた方が良い。

残念ながらダーウィンは、
現代の生態系概念に相当するものを明確に表現できていないために、
その議論が不透明になっていて、
生態系の中で新しいニッチが獲得されることで生物体量が増加する話と
単に新しいニッチを獲得した種が個体数を増やすという話が
十分に整理されているとは言い難い。
このあたりを整理しようとすれば、内井の再定式化の(D1)を修正して

(D1') どんな種も、個体数をさらに増やそうとして、それがこれまで利用していなかった新しい場所を自然界で獲得しようとする傾向がある。

とすると共に、

(D1") どんな生態系においても、これまで利用されていなかった新しい場所を獲得する種がでることで、それまでの合計よりも多くの生命が可能となる。

というようなものを加えるのが適切ではないだろうか。

異なるニッチへの進出とそれに応じた適応が
種の分岐をもたらすということだけであれば
内井による分岐の原理の再定式化でも十分なのだろうが、
内井の再定式化では結局のところ
適応のピークが複数ある場合の分断性選択の話にしかなっていない。
ただ単にある種が似たような別々の種に分岐するのではなく、
ニッチに相応しい形質を獲得し形質の分岐が生じることだからこそ
形質の分岐を分業になぞらえることの意味がある。

また複数のニッチに生物が進出することで生態系が出来上がるような
そういう進化のプロセスを含めて記述しようとしたものとして考え、
適応に関する自然選択という原理に加えて、
生物が分岐によって利益を得るという原理が作用しているからこそ
環境の変化がないときでも種の形成が生じているということになるのではないか。

この事に関連して今西錦司が「ダーウィン論」で

「この地球上の生物が、ばらばらに発生したものならいざ知らず、たとえ体制の簡単な生物であろうと、もとは一つのものから分化発展したものとするならば、余剰生産物をつくることも、またその余剰生産物を消費することも、いずれもこの分化発展の途上に現れた現象に他ならない。(中略)これをお互いにお互いを成り立たせてゆくための相互適応といってもよいが、そこにダーウィンのよく使う言葉でいったらeconomy of natureとか、policy of natureとかいったものが、考えられるのではないだろうか。ダーウィンが今日の生態学の元祖であるといわれるゆえんも、またここのところを指したものでなければならない。」

(今西「ダーウィン論」p.29)

と書いていることは非常に興味深い。