地獄のハイウェイ

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歴史の敗者としてのホメオパシー

極東ブログ」のfinalventさんが、
ホメオパシーの祖であるサミュエル・ハーネマンについて記事を書かれている。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/07/samuel-hahneman.html

生没年から言えばハーネマン(1755~1843)は、
種痘のエドワード・ジェンナー(1749~1823)や
骨相学のフランツ・ガル(1758~1828)と同時代人であり、
日本で言うと華岡青洲(1760~1835)が同時代人ということになる。
日本における西洋科学の受容の先陣を切ったのは医学分野(蘭方医)だが、
その代表的人物である杉田玄白(1733~1817)や前野良沢(1723~1803)らは
ハーネマンよりも一世代前の人である。

ジェンナーによる種痘の実施が1796年であり、
ゼンメルワイス(1818~1865)の消毒による産褥熱の予防が1847年だから
当時は近代医学の夜明けの時期であって、
ホメオパシーがそれなりの地位を築くことは可能だったのだろう。

また、ホメオパシーが米国に伝わったのが1828年というが、
これはシーボルト事件の年でもある(因みにシーボルト鳴滝塾開設は1824年)。
日本の医学の近代化の歴史と創成期のホメオパシーの歴史は、
時期的にかなり重なるところがあるにも拘らず、
ホメオパシーがそのタイミングでは日本で普及しなかったのは、
東洋医学を上回るような効果があるとは評価されなかったというのが
本当のところではないだろうか。

つらつら考えるとホメオパシーは、
瀉血療法のような前近代的な医療を近代医学が駆逐する過程における競合者であり、
また日本のような異質の医学的伝統を持つ社会への西洋医学の伝播過程においても
近代医学の競合者であり得たのだが、
結局、歴史の敗者となったと見るのが無難ではないかと思う。


※2010.7.20追記
ホメオパシー信奉者による反種痘運動について述べた
服部伸「ホメオパシー信奉者たちにとってのジェンナーの「記憶」」
関学西洋史論集29, pp.3-14)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004999731
という論文があった。
種痘の成果が否定しきれなくなると
それをホメオパシーの陣営に引き入れようとしたあたりに
ホメオパシーの近代医学への屈折した敵愾心が窺えて
非常に興味深いと思う。