地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

批判者が信奉者から論者として信用されるために

疑似科学やオカルトなどの信奉者に説得を試みる場合に
丁寧に論理的に筋道立てて説明したつもりでも、
ちっとも納得してもらえない場合には、
「相手には理解力が欠如している」とか
「バカに理屈は通用しない」とか
そういう感想を持つことはよくあることだと思う。
趣味的な批判に留まるつもりであれば、それでも良いのかもしれないが、
少しでも相手を納得させたい場合、
とりわけ医療関係のニセ科学の場合などで
危険や被害を避けなければならぬ緊急性があると思うならば
そこに留まることはできないであろう。

ニセ科学信奉者が他の面で日常生活を無難にこなしているのであれば
ある程度の合理的思考が出来るはずであろうから、
理屈で説得できないのは
相手から信用されていないからではないかと
疑ってみるのが良いのかもしれない。
なぜなら信用できない相手の言うことなどまじめに検討しようともしないというのが
ごく普通の人間の態度だと思うからだ。

それで、論者として信用されるためにはどうすれば良いのかを考えるときに
アリストテレスの分析は参考になるのではないかと思われるので、
ちょっと長くなるが引用してみる。

さて、論者自身が信頼される根拠となるものは三つある。つまり、われわれが人を信頼する拠りどころは、論証を別とすれば、それだけの数があるからである。それらは、思慮、徳(道徳的優秀性)、好意の三つである。なぜなら、論じたり助言したりしている問題で誤つことがあるのも、これらのすべて、または、これらのどれか一つが原因となっているからである。つまり、人々は、思慮を欠くがゆえに正しい見解を持てないのであるか、或いは、正しい見解は持っているが、品性が劣悪であるために、その見解をそのまま述べようとしないのであるか、或いは、思慮もあり、品性も優れているが、好意を持っていないために、最後の手だてを知っていながら、それを助言しないこともありうるということなのか、そのいずれかであって、それ以外の理由はないのである。したがって、これら三つのものを備えていると思われる人は、当然、聴き手とっては信頼しうる人物であるということになる。
アリストテレス「弁論術」1378a、戸塚七郎訳、岩波文庫版p.161-162)

もちろんアリストテレスの言うことは必ずしも正しくはないかもしれないが、
知識が十分でない分野での愚かしい発言を繰り返すことや
説得相手が下品だと思うような表現を繰り返すことや
敵意や軽蔑の感情を剥き出しにした態度などは
説得にとってマイナスだというのは多く賛成が得られるのではないだろうか。

だから相手を「バカ」呼ばわりすることは
たとえ「自分もバカなんで」というエクスキューズを加えたとしても
説得という目標にとっては貢献するものではないように思う。


本記事は、mojimojiさんの「バカへの信を問う」と
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080529/p1
それに対するlets_skepticさんの「それでも私は彼らをバカなどではないと言い続けるッ!!」
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080529/p1
という応答や関連するエントリーを見て触発されて書いたものです。
mojimojiさんのエントリの趣旨が、
信奉者を説得することではなく、
批判者の態度を論じることにあることは理解しているつもりです。