地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

国威発揚でも産業貢献でもなく

大「脳」洋航海記のvikingさんが、
自分の「役に立たなくても面白いものを」に対して
"「国民の科学」を目指しても問題は解決しない"
http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=2021
というトラックバックを送ってくださった。
訪れる人もまばらな過疎地ブログを取り上げていただくのは
非常にありがたいことだと思う。
折角なので少しリアルな物事を検討してみよう。

第2次大戦後の冷戦期に大型予算を使う基礎科学研究が繁栄した要因として
軍事予算の投入がかなりの部分を占めていたことは比較的良く知られている。
アメリ連邦政府の研究開発投資が増大する切っ掛けとなるのは
1957年のスプートニク・ショックであることは有名であるし、
1970年の時点では国防省連邦政府の研究開発投資の半分程、
国威発揚を目指したアポロ計画NASAと合わせれば70%以上を閉めている。
(廣重徹「科学の社会史(下)」岩波現代文庫p.186掲載のグラフより)
また廣重の上掲書p.195の記述を見ると、
70年代初頭には、急成長したアカデミアから生み出される
大量の博士号取得者の就職難が問題になっていたようで、
その時点での予測で1971~80年に37~50万人の新卒博士が出るのに
大学の教職に就き得るのは30%以下で残りの半分以上(つまり13~17万人)は
研究開発に何らかの関係ある職には就けないだろう、という見込みが出ていたようだ。
急拡大したアカデミアと研究職に就けない博士という構図は
規模の大小の差はあれ今日の日本の現状に似たものを感じさせる。

そして1989年の冷戦の終了で軍事予算の支出が抑制されると共に
科学予算の中心が物理学から医学・生物学に移ったわけだが、
その象徴的存在が1990年に開始されたヒトゲノム・プロジェクトだろう。
日本はヒトゲノムに乗り遅れて国威発揚に失敗した反動で、
その後の国策としてバイオ関係の研究予算を拡大するが、
バイオ・バブルがはじけて関係者は大変なことになっているわけだ。

極論をすれば政治家は票にならないことは関心を示さないので、
国威発揚であるとか産業貢献であるとかのお題目でないと
政策に反映されることが難しいというのは確かだ。
だがその現状に甘んじている限り、
国策による大規模な資金投入の前もそしてその後も
国際競争力が低いと見なされているバイオ分野などは
株の用語でいうところの損切ではないが
見捨てられ切捨てられてしまうのが落ちだと思う。
そのような現状から脱却するためには国威発揚でも産業貢献でもない
政治に働き掛けることのできる別の言葉が必要だと思っている。

それから科学への国民的理解云々に関してなのだが、
アメリカは日本よりもましなのだろうが、
進化論の受容度が50%を切っているあたりに
歪んだものを感じてしまうのも正直なところだ。
一方で数学基礎論のような産業応用のなさそうな分野でも
ゲーデル不完全性定理のオリジナル論文の邦訳が文庫で入手できるし、
フレーゲの著作集で「概念記法」の邦訳も入手できるのだから、
日本国民の知的好奇心も捨てたものではないと自分は思っている。