地獄のハイウェイ

科学・技術や趣味のことなど自由気ままに書き散らしています。

”Adapted” vs. "Adapting"

 これまでも進化心理学についてあれこれ批判的な意見を言ってきたが、ちょっと調べてみると、自分のような小物があれこれ論ずる以前に、厳しい批判が出ていたことを知った。

 進化心理学をどういう研究プログラムとして特徴づけるかであるが、提唱者であるL.コスミデスとJ.トゥービイに由来する、1)人間の心は多数の領域特異的なモジュールによって構成されている(Massive Modular Hypothesis、略してMMH)、2)これらの領域特異的モジュールは、更新世旧石器時代の進化適応環境(Environment of Evolutionary Adaptedness、略してEEA)に適応進化したものである、3)これらのモジュールは種としての人間に普遍的な心理的形質(Human universals)である、といった特徴づけが基本的には適切だろう。これらの中で、EEAは適応進化は過去になされたものであるという観点をもたらし、実際コスミデスとトゥービィがJ.バーコウと編纂した”The Adapted Mind: Evolutionary Psychology and the Generation of Culture”(1992)という進化心理学の基本的な論文集のタイトルに「適応した」(”Adapted”)という過去分詞を用いていることにも象徴的に表れている。

 これに対して色々な批判が出ていたのであるが、中でもD.ブラーという哲学者が2005年に”Adapting Minds: Evolutionary Psychology and the Persistent Quest for Human Nature”という著作を出している。”Persistent Quest”は「絶え間なき探求」とか「持続的な探求」ではなくて揶揄的なニュアンスで「しつこい探求」のような意味合いではないかと思われるが、”Adapting”の部分は、現在分詞で「適応している」という格好で、”Adapted Mind”との対比を示している。このブラーの著作は科学哲学界隈では結構重要な批判とみなされているみたいで、日本でも進化心理学支持派の哲学者の反論が出ていたりする。ブラーの進化心理学批判についてはネット上に見られる書評が詳しいが、人間本性に関わる部分は、要するに「進化心理学本質主義的な人間本性を明らかにしようとしているが、本質主義的な人間本性は進化的説明とは相容れないので進化心理学は間違っている」ということのようだ。

 自分の進化心理学への違和感もEEAに関連するが、適応主義と断続平衡説の悪魔的アマルガムのような部分に向けられているので、ブラーのものほど射程は長くはないし、周回遅れだったとも思うが、一応リンクしておくことする。

katsuya-440.hatenablog.com

日本産水産物の輸入を禁止するなら日本近海で漁をするな

 中国政府がALPS処理水の海洋放出に対して訳の分からない反対運動をしていて困ったものだと思っていたら、日本産水産物の全面的な輸入禁止という嫌がらせとしか思えないような手段に訴えてきた。日本政府は輸入禁止措置の撤回を要求しているようだが、相手が相手なのでこのままでは埒が明かないのじゃないかと思う。それで何らかの報復措置をとった方が良いのではないかと思う。それで思ったのだが、中国側が禁輸措置を解くまでの対抗措置として日本の排他的経済水域内での中国漁船の操業を禁止しても良いのではないか。日中漁業協定によれば日本の排他的経済数域内での中国漁船の操業許可や操業条件を決めることができるらしいから、一発ガツンとやっても良いのではないだろうか?

 本当なら禁輸をちらつかせてきたときに、操業禁止をちらつかせて対抗すべきだったのかもしれないが、福島から遠く離れた水域での水産物に対しても難癖をつける中国側の意向なのであるから、操業を禁止してさしあげても中国側は文句は言えないのではないだろうか?

リスキリング/ハロートレーニング

 ネットのニュースを見ていると、在職者の転職のためのリスキリング支援に経済産業省が乗り出しているそうだ。転職を希望する在職者に対して1人あたり40万を上限に、受講費用などの半額が補助される制度のようだ。たぶん”リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業”で採用された事業者のプログラムを受講すると受講費用を補助するということなのだろう。

careerup.reskilling.go.jp  報道を見ていると、主としてIT系の人材確保がターゲットのようにも感じられるが、誰しも思つくだろうけれど、厚生労働省がやっている教育訓練給付制度と似たような制度(経産省のは在職者限定のようだが)の印象である。なんだか役所の縄張り争いというか予算の分捕り合戦が絡んでいそうな気もするが、大手マスコミの報道だとそういうのは報じられていない。

 更に言えば、厚労省にはハロートレーニング(公共職業訓練と求職者支援訓練)があって(原則無料)、分野としてはIT系の訓練も含まれている。公共職業訓練の方だとみっちり専門学校に通うのと似たようなイメージだ。

www.gov-online.go.jp

www.mhlw.go.jp

 IT業界の人手不足なら、教育訓練給付やハロートレーニングのIT分野を拡充するべきとも思うが、今回の経産省の話はそういうのとはあまり関係していないようにも見える。邪推だと思うが、リスキリングの話の方は系列的に厚労省系の事業には参加していないような事業者(例えば転職エージェントや派遣会社みたいなところ)が、補助金をゲットできるようにする仕掛けなのかなとも勘ぐってしまう。

 

 

ジェンダー平等とLGB”T”

 LGBT理解増進法案が国会で審議されるそうで、色々と話題になっているようだ。報道によると、自民・公明案、維新・国民案、立憲・共産案などがあってあれこれ議論されるようだが、自分は拙速な採決には否定的である。調べてみると、自民・公明案は「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」、維新・国民案は「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」、立憲・共産案は「性的指向及び性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」というもので、大きな違いは”性同一性”、”ジェンダーアイデンティ”、”性自認”という用語のチョイスにあるようである。

 海外で同性婚した人*1の取り扱いは各種法律上でどう扱うべきか、そういう問題は真面目に考えないといけないと思うが、今回のLGBT理解増進法案はそこまで細かい話ではなく、とりあえず「差別はダメですよ」という感じのもののようで、LGBTの中でT(トランスジェンダー)の扱いに関する各党の意見の違いのように見える。自民・公明案はTを性同一性障害のような当事者が性転換(現在の日本では可能*2、有名どころだとカルーセル麻紀とか)を希望する人を主眼にした表現で、維新・国民案はそれより広め、立憲・共産案は更に対象を広くとっている印象である。そうなると各党の考え方の違いの焦点はTの人をどう考えるかにあるように見える。

 自分はこの種の問題には余り詳しくはないので勘違いしているかもしれないが、ジェンダー平等の観点から見て、トランスジェンダーの人はどうあつかうべきと考えられているのかよく分からない。日本は女性の社会進出が遅れているので、アファーマティブアクションとかそういうのが必要だとかといった議論で、Tの女性(性自認が女性な男性、ムエタイのパリンヤーはこちら)を女性として扱うべきだとかそういう議論は見掛けもするが、Tの男性(性自認が男性な女性、ボクシングの真道ゴーみたいなケース)については議論の中に考慮されているのかよく分からない。スポーツだとTの人の扱いは非常に難しいが*3、政治や経済の分野だと肉体的強度の性差はほとんど問題にならないので、国会議員なり企業の取締役の女性比率を議論する際には、Tの人達をどういう扱いにすべきかもう少し議論しても良いような気がする。男性でも女性でも性適合手術や戸籍の変更をしていない単に性自認だけがTの人は、どちらの性でカウントすれば良いのだろう?

*1:先日TV放送された『新婚さんいらっしゃい!』ではフランスで同性婚した日本人とリトアニア人のカップルが登場していた。

*2:性同一性障害特例法」がある。

*3:性自認は女性だが、医学的には性分化疾患(両性具有)で性器を除けば男性同様の肉体の陸上のキャスター・セメンヤのように極度に取り扱いが難しいケースもある。

『シン・仮面ライダー』感想

 少し前のことになるが、『シン・仮面ライダー』を映画館で観た。自分のようなTV第1作の『仮面ライダー』(1971年4月3日~1973年2月10日放映)直撃世代にとっては、もしかしたらこんな仮面ライダーを見ることになったのかもしれないという“歴史のif”みたいな感じがして、心に刺さるところの多い作品であったが、直撃世代でないとそういうのは分からないだろうから、見る人を選ぶ作品だと思う。

 TV第1作の『仮面ライダー』は第1話が「怪奇蜘蛛男」第2話が「恐怖蝙蝠男」といった題名からわかるように、初期は怪奇ものの雰囲気があったが、その方向でリメイクとしてはイマイチで、『シン・仮面ライダー』では変にSF趣味の解説(登場人物の説明台詞)が雰囲気を台無しにしていた(怪人同士が謎の言語で会話する『仮面ライダークウガ』の方がその辺はずっと出来が良い)。物語の全体テイストはむしろ”抜け忍もの”のようになっていて、一緒に観た嫁さんは「キカイダーの方に似ている」と言っていた。石ノ森の漫画版(自分は読んだことはなかったが、厳密な意味では原作ではなくメディアミックス作品)は、その方向だったのかもしれないが、我々の世代が夢中になったのは2号ライダー以降の明快な勧善懲悪のアクションヒーローものだったので、その点では懐メロ的な期待はだいぶ裏切られた。一方であの時代の空気を吸って育った我々には、「もしかしたら仮面ライダーはこんな風になってたかもしれない」という実感は強くあって、物語としては一部の悪評ほどの期待外れではなかった。

 ただ、肝心のアクションはダメだった。予告編の格闘シーンの重量感・スピード感が欠如していて非常に不安に思っていたのだが、その不安が完全に的中していた。先日NHKで放送された製作ドキュメンタリーで、「アクションにこだわった」とか言っているのを見て、腹が立って速攻でTVを切ったくらい、アクションが安っぽかった。ネット情報を見ると本職のスーツアクターを使わず、アクションが本職でない俳優さんにやらせたらしいが、格闘技経験のほとんどない素人に演じさせたら、迫力不足の動きになるのは当然だ。パンチ初動の弾力ある加速感やフォロースルーの風圧のような感じがないと簡単に避けられそうな気分がして迫力を感じることができないのである。我々の世代は、ライダーキックの洗礼の後にブルース・リー映画を見て育ったので、本当のことを言えば今となっては元の『仮面ライダー』のアクションでさえ少し古臭く感じる。今時の洋画だとマーベルとかのアメコミ映画の大袈裟なCGアクションシーンよりも、『エクスペンダブルズ』とかそっち系のアクション映画の方が”肉体言語”を感じるのだが、残念ながら『シン・仮面ライダー』は前者の劣化版のようだった。

もしかして「無職お断り」か?

 知っている人には今更だが、転職しようとしている研究者に研究系の求人情報を紹介する科学技術振興機構が運営するJREC-IN Portalというのがある。次のポストを探すポスドクも当然のこと、求職者側としてこれを利用するわけであるが、求職者ユーザーとして登録するためには、現所属機関の情報が必要なのである。

 登録ユーザ向け利用規約の第2条(14)には

「ユーザ基本情報」とは、全ての登録ユーザがJREC-IN Portalに登録することを要する氏名、生年月、メールアドレス、専門分野/研究分野、現所属機関種別等の当該登録ユーザに関する基本的な情報をいう。

となっている。

 利用規約の上で研究機関に所属していることを必須としているのではないので、原理的には契約満了で無職になったポスドクでも利用が可能なはずであるが、無職になってから登録することはシステム上想定されていないようだ。ポスドクとして働いているか、無給でも良いからどこかの大学の研究生等の身分があるうちに、ユーザー登録を済ませておく必要があるようだ。個人事業主扱いを受けている非常勤講師(いわゆる専業非常勤講師、文系には結構いると聞く)の場合が想定されているのかどうかは良く分からない。

エウドクソスの太陽と月

 古代ギリシア天文学の歴史において、空想的なレベルを脱した天体の運行のモデルが提案されたのは、エウドクソス(390 BC頃~337 BC頃、408 BC頃~355 BC頃説もある)による同心天球説球を嚆矢とする。このエウドクソスの同心天球説では、宇宙の中心に地球を置き、その地球と中心を同じくし一様な回転運動をする天球の運動の組み合わせにより天体の運行を説明する。恒星の(見掛けの)日周運動を1日に1回転する*1恒星天球によって説明し、5惑星については日周運動に1個と黄道を周回する公転周期の運動のために1個と逆行運動を説明するための軸の異なる2個の天球の組み合わせという1惑星につき4個の天球で説明する、というモデルである。幾何学的モデルによって惑星の逆行を説明することができる点で画期的なものだった。エウドクソスの同時代に一世を風靡したかどうかは分からないが、ほぼ同時代のアリストテレス(384 BC~322 BC)などに強い影響を与えたようで、アリストテレスは『形而上学』12巻8章でエウドクソスの同心天球説の概略について説明している*2。それによると5惑星に各4個、恒星天に1個、太陽と月に各3個の合計27個の天球からなるモデルで、太陽と月に関しては「それぞれ3個の天球」が当てられているものとされている。

 しかし、太陽や月の運行を説明するのに各3個の天球というのは、一体どういう動きを説明しようとしていたのだろうか。5惑星に各4個(日周運動と黄道を周回する公転と逆行用のペアをなす2個)の天球があるのは分かるが、太陽の3番目の天球は何の運動をしているのか分からない。どのくらい精密な観測データがエウドクソスの時代にあったよく分からないが、現代の知識から考えると単純なモデルとしては、恒星天球(=地球の自転)と太陽の黄道を巡る年周運動の天球(=地球の太陽周りの公転)と月の白道を巡る月周運動の天球(=月の地球周りの公転)の3つでも概ね問題ないはずである。エウドクソスのモデルは日周運動と天体の動きの組み合わせなので、その述べ方に合わせると太陽に2個(日周運動と公転)、月に2個(日周運動と公転)ということになる。

 エウドクソスの同心天球説の説明をネットで色々さがしてみたが、惑星の逆行のところを詳しく説明してくれているものはあっても、太陽と月の話については軽く触れられているだけで、太陽と月のそれぞれの3個の天球がどんなものかは判然としない。アリストテレスによると、カリポス(カリッポスとも、370 BC頃~300 BC頃)は観察された事実を説明するために、太陽に2つ、月に2つ、火星と金星と水星にそれぞれ1つ、エウドクソスのモデルに更に天球を追加するべきだと考えたらしい。カリポスはエウドクソスの弟子筋(孫弟子?)の天文学者太陰太陽暦におけるカリポス周期に名を残すが、春分から夏至まで、夏至から秋分まで、秋分から冬至まで、冬至から春分までのそれぞれの日数が94 日、92日、89日、90日であることを観測したということなので、太陽天球の回転速度の不均一性(一様運動に対する変則性、第一変則性)*3を説明するために太陽に天球を追加したものと考えるのが通説のようである。通説の通りカリポスが太陽の第一変則性の説明に天球を追加したのであれば、エウドクソスの太陽モデルでは年周運動は一様であることになる。ということはエウドクソスの太陽モデルにおいて第一変則性の説明に寄与するような機能のために第3の天球があった可能性はあり得ないだろう。

 いくつかの解説(例えば英語版のWikipedia)では、月の第2の天球(黄道回りの天球)が黄道回りを1カ月で回転し、第3の天球の運動によって黄道からのずれが生じると説明しているが、第2の天球と第3の天球の運動は合成されるものであるから、第3の天球の回転軸を白道の回転軸に合わせた場合の天球の回転速度の設定が難しくなる。というのは、このやり方だと月の黄道回りの回転と白道周りの回転を合成した運動の周期が1カ月になるように調整する必要があるからである。例えば、第2の天球の黄道回りの月周運動に第3の天球の白道周りの1カ月周期の順行(黄道の回転と同方向)運動を合成すると、月の恒星天球に対しての回転速度が2倍になって周期が半分になってしまう。月の第3の天球の回転軸を白道天球の回転軸と合わせないで、黄道天球の回転軸と直交させて黄道に対する経度方向(黄経)の運動成分を無くさせて緯度方向(黄緯)だけ月周運動させるようすることも想定可能であるが、その場合には第3の天球上で月を置く場所を回転軸に直交する面で切断して得られる断面の円の半径を黄道天球の半径よりもずっと小さくする必要があり(黄道天球と同じ半径の第3の天球の赤道に月を置くと黄道から離れすぎる)、単純に白道天球で月の運動を考えるよりも位置計算がかなり複雑になる。だから月の第2の天球(黄道天球)を月周運動させるようなモデルをエウドクソスが採用していたとは考えにくい。それよりはむしろ月に関しては黄道を周回する天球によって、日食に関係し古代バビロニア天文学で古くから知られていたサロス周期(約18年)が反映されている可能性の方がまだありそうである。しかしエウドクソスの同心天球モデルで、そのような日食の周期性が反映されていたかどうかは判然としない。エウドクソスは、惑星が黄道を周回する周期として、水星と金星に1年、火星に2年(公転周期1.88年)、木星に12年(公転周期11.86年)、土星に30年(公転周期29.46年)と整数年を当てていたようだ*4。惑星の黄道周回の公転周期を整数でないよう(例えば火星なら47/25とか)にしても良いはずだが、太陽と月だけ精度を高くしてサロス周期について考慮していたとも考えにくい。

 念の為、アリストテレスの『形而上学』の該当箇所の現代語訳を見てみる。

(英文は The Internet Classics Archive | Metaphysics by Aristotle から)

    Eudoxus supposed that the motion of the sun or of the moon involves, in either case, three spheres, of which the first is the sphere of the fixed stars, and the second moves in the circle which runs along the middle of the zodiac, and the third in the circle which is inclined across the breadth of the zodiac; but the circle in which the moon moves is inclined at a greater angle than that in which the sun moves. And the motion of the planets involves, in each case, four spheres, and of these also the first and second are the same as the first two mentioned above (for the sphere of the fixed stars is that which moves all the other spheres, and that which is placed beneath this and has its movement in the circle which bisects the zodiac is common to all), but the poles of the third sphere of each planet are in the circle which bisects the zodiac, and the motion of the fourth sphere is in the circle which is inclined at an angle to the equator of the third sphere; and the poles of the third sphere are different for each of the other planets, but those of Venus and Mercury are the same.

 エウドクソスは、太陽や月の運動は、いずれの場合も3つの天球が関与すると考えた。その第1のものは恒星の天球であり、第2のものは黄道帯の中央に沿って走る円を動き、第3のものは黄道帯の幅を横切って傾斜しているが、月が動く円は、太陽が動く円よりも大きな角度で傾斜している。惑星の運動には、それぞれ4つの天球が関与しており、このうち第1と第2は、前述の最初の2つと同じである(恒星の天球は、他のすべての天球を動かすものだからであり、この下に置かれ黄道帯を二分割する円の中で運動するものはすべてに共通である) 、しかし、各惑星の第3三の天球の極は黄道帯を二分割する円の中にあり、第4の天球の運動は第3の天球の赤道に対して斜めに傾いている円の中にある;また、第3の天球の極は他の惑星ではそれぞれ異なるが、金星と水星のそれは同じである。

    Callippus made the position of the spheres the same as Eudoxus did, but while he assigned the same number as Eudoxus did to Jupiter and to Saturn, he thought two more spheres should be added to the sun and two to the moon, if one is to explain the observed facts; and one more to each of the other planets.

 カリポスは天球の位置をエウドクソスがしたのと同じにしたが、エウドクソスと同じ数を木星土星に割り当てながらも、観察された事実を説明するならば、太陽に2つ、月に2つ、その他の惑星にはそれぞれ1つ、さらに天球を追加するべきだと考えた。

    But it is necessary, if all the spheres combined are to explain the observed facts, that for each of the planets there should be other spheres (one fewer than those hitherto assigned) which counteract those already mentioned and bring back to the same position the outermost sphere of the star which in each case is situated below the star in question; for only thus can all the forces at work produce the observed motion of the planets. Since, then, the spheres involved in the movement of the planets themselves are--eight for Saturn and Jupiter and twenty-five for the others, and of these only those involved in the movement of the lowest-situated planet need not be counteracted the spheres which counteract those of the outermost two planets will be six in number, and the spheres which counteract those of the next four planets will be sixteen; therefore the number of all the spheres--both those which move the planets and those which counteract these--will be fifty-five. And if one were not to add to the moon and to the sun the movements we mentioned, the whole set of spheres will be forty-seven in number.

 しかし、もしすべての天球を組み合わせて観測された事実を説明しようとするならば、それぞれの惑星に対して、すでに述べた動きを打ち消し、それぞれ星の下に位置する星の一番外側の天球を元の位置に戻すための(これまで割り当てられたものより1つ少ない)他の天球が必要であり、このようにすることによってのみ、働くすべての力が惑星の観測される動きを作り出すことができる。従って惑星それ自身の運動に関わる天球は、土星木星が8個、その他の惑星が25個で、このうち最も下側の位置にある惑星の運動に関わる天球だけは動きを打ち消す必要がないので、最も外側にある2つの惑星の運動を打ち消す天球が6個、次の4つの惑星の運動を打ち消す天球が16個となり、従ってすべての天球(惑星を動かす天球と打ち消す天球の両方)の数は55個になる。そして、もし月と太陽に先に述べた動きを加えなかったとしたら、天球の全数は47個になる。

 確かに、天球数の合計を見ても、アリストテレスは太陽と月にそれぞれ3個の天球を割り当てていたのは確かなようだ。少なくともアリストテレスの記述では、太陽と月に関しては「それぞれ3個の天球」となっているのは間違いないようである。とは言え、アリストテレスによる同心天球説についての記述が正確であることまで保証されている訳ではない。なぜなら、アリストテレスの記述には変なところがあるからである。地球に一番近い月(最も下側にある惑星)にはその天球運動の打ち消し用の反転天球がないのだから、カリポスが月と太陽にそれぞれ追加した天球2個ずつを加えないとしたら、天球の全数は55個からカリポスが月と太陽に追加した4個と太陽運動の打消し用の反転天球2個の合計6個を引くので49個になるはずである。ところが「47個になる」と書いているのだから、アリストテレスは何か勘違いしており、その記述の正確さについては過度に信頼しない方が良いことがわかる。

 色々と考えてみると、エウドクソスの太陽と月の天球のモデルについてありそうな可能性は、次の3通りになるのではないだろうか。

  1. 太陽に日周用1個と年周用1個と更に1個、月に日周用1個と黄道周回用1個、白道周回用1個の各3個ずつ。
  2. 太陽に日周用1個と黄道年周用1個、月に日周用1個と白道月周用1個の各2個ずつ
  3. 太陽に日周用1個と黄道年周用1個の2個、月に日周用1個と黄道周回(例えば18年のサロス周期)1個と白道月周用1個の3個。

ここで、1. がアリストテレスの記述に対応する(伝統的な解釈)が、太陽の第3の天球の働きが分からない。また月の第2と第3の天球の関係も判然としない。さらに言えば、アリストテレスの記述では太陽の3個目の天球の赤道が黄道帯の幅を横切って傾斜していることになっていて、太陽が黄道からずれて運動するという天体運行モデルとしてあり得ないものになってしまう。太陽と月の運動を考えるのなら単純というか素朴な2. か、より精密に洗練された3. の解釈が適切ではないかと思われる。しかし、2. の解釈だとアリストテレスの記述とは整合性が取れない。また3. の解釈の場合は、太陽と月に異なる数の天球(太陽2個、月3個)を割り当てるので、太陽と月を一つのグループとして扱うにはちょっと相応しくないように思われる。2. や3. の場合は、アリストテレスが勘違いか何かで同心天球説を間違って記述していたことになるが、そのようなことがあり得るのか少し考えてみた。

 『形而上学』の英文を見ていて気が付いたのだが、引用した文章の最初パラグラフの先頭付近にある”in either case”を削除すると、個数(3個)ではなく種類(3種)の意味にとれないこともない。もし我々が理解できるように文意が通るよう改変するなら、月の軌道の傾きが太陽の軌道よりも大きく傾いていることを記述している個所の”that”を”the second”と置き換えると良いのではないだろうか。

    Eudoxus supposed that the motion of the sun or of the moon involves , in either case,  three spheres, of which the first is the sphere of the fixed stars, and the second moves in the circle which runs along the middle of the zodiac, and the third in the circle which is inclined across the breadth of the zodiac; but the circle in which the moon moves is inclined at a greater angle than that the second in which the sun moves.
 エウドクソスは、太陽や月の運動は、3つの天球が関与すると考えた。その第1のものは恒星の天球であり、第2のものは黄道帯の中央に沿って走る円を動き、第3のものは黄道帯の幅を横切って傾斜しているが、月が動く円は、太陽が動く2つ目よりも大きな角度で傾斜している。

 ギリシア語の原文に当たった訳ではないが、この改変バージョンであれば、黄道天の赤道に対して約23.4°傾いていて、白道黄道に対して更に約5.1°傾いていることにも整合的になる。アリストテレスは専門の天文学者ではなく、『天体論』では太陽を5惑星よりも地球に近いものとして月のすぐ上に置いたりしていたりするような人*5なので、「太陽や月の運動の説明に必要な天球(の種類)は3つ」と聞いたのを「太陽や月の運動の説明に必要な天球は3つ(3個)」と解釈して、アリストテレスなりに分かりやすくしようとして「太陽や月の運動に必要な天球はそれぞれ3つ」と記述したというのが案外ありそうな気がする。もしそうだとしたら、オリジナル版のエウドクソスの同心天球説においては、太陽と月にはそれぞれ2個の天球を割り当てていたとするのが尤もらしいのではないだろうか。

*1:エウドクソスのモデルの数値パラメータとしてきちんと反映されていたかどうかは不明だが、厳密には恒星天球の1回転は1日よりもわずかに短い時間(約4分短い)でなければならない。季節によって見える星座が異なり、星座は1年をかけて1周するからである。このことは当時でも知られていたと考えなければならない。

*2:1世紀ほど後のアルキメデスが『砂粒を数えるもの』の中で、エウドクソスが太陽と月の直径の比は約9倍であると主張したと言及しているが、そちらの学説の方は、アリストテレスには影響を与えなかったようである。

*3:第一変則性はカリポスによって発見されたのではなく、通説によるとはエウドクソスよりも古い時代に知られていたようだ(紀元前5世紀のエウクテモンが四季の長さの不均等性について述べていたらしい)。カリポスの観測はこれを定量的に評価しようとしたもののようだ。

*4:エウドクソスの理論に関して、アリストテレスの記述を超える情報は、主としてシンプリキオス(480 AD頃~560 AD頃)によるアリストテレスの『天体論』への注釈によるのだが、これはプトレマイオス(100 AD頃~170 AD頃)の『アルマゲスト』にパップス(290 AD頃~350 AD頃)が注釈した場合よりも時代の隔たりが格段に大きく、どこまで信用できるのか不安な部分もある

*5:太陽は金星や水星よりも地球に近いとプラトンが考えていたようなので、アリストテレスはそれに引きずれられていたのかもしれない。